ことばのスペシャリスト集団・国立国語研究所が叡智を結集して身近ながらも深遠な謎に挑む、人気シリーズ第2弾『日本語の大疑問2』より、一部を抜粋してお届けします。
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現代の高校生が戦国時代にタイムスリップしたら、言葉は通じますか
回答=村山実和子
戦国時代は「古代語」と「近代語」のはざま
まず、戦国時代がいつ頃のことを指すのか、というところから考えてみましょう。一般的には、おおよそ室町時代(1336~1573年)の後半がその時期に当たるようです。と言っても、当時どういった言葉が用いられていたのか、あまりピンとこない方が多いのではないかと思います。そこで、ここからは、室町時代の「話し言葉」を実際にのぞいてみることで、意思の疎通がはかれるかどうかを考えてみることにします。
当時の話し言葉を反映する代表的な資料として、室町時代の終わり頃に日本を訪れたキリスト教の宣教師たちが、日本語や日本文化を学習するために作成した資料群(キリシタン資料と呼びます)が挙げられます。ここではそのひとつ、『天草版*1伊曽保物語(エソポのファブラス)』(1593年)の一部を見てみましょう(原文はポルトガル式のローマ字)。
出典:国立国語研究所「大英図書館所蔵天草版『平家物語』『伊曽保物語』『金句集』画像」より
ある童 羊に草を飼うて居たが, ややも
すれば口ずさみに「狼の来るぞ」と叫ぶ程
に, 人々集まれば, さもなうて帰ることたび
たびに及うだ。またある時 まことに狼が
来て, 羊を食らうことによって, 声をはかりに喚き
叫べども, 例のそらごとよと心得, 出で合う人
なうて, ことごとく食らい果たされた。下心。
常に虚言を言う者は, たとひ真を
言う時も, 人が信ぜぬ物ぢゃ。〈現代語訳〉ある子供が羊に草を与えていたが、何かにつけて口癖のように「狼が来るぞ」と叫ぶので、人々が集まると、そういうこと(筆者注:狼が来ること)もなくて帰ることが何度もあった。そしてある時本当に狼が来て、羊を襲うので、(子供は)声を限りに喚き叫んだけれども、いつもの? だと思って出てくる人もおらず、(羊は)すっかり食い尽くされてしまった。
寓意。常に嘘を言う者は、たとえ本当のことを言っても、人が信用しないものだ。
『伊曽保物語』は、いわゆるイソップ寓話です。例に挙げたのは、私達にもなじみのある「オオカミ少年」のお話ですが、いかがでしょうか。『源氏物語』や『枕草子』など、教科書で見覚えのある古典作品等に比べると、かなり異なる印象を受けます。
たとえば「飼うて居たが」のような接続助詞の「が」は院政期以降に見られるようになるものですし、「食らい果たされた」「信ぜぬ物ぢゃ」に見える助動詞の「た」「ぢゃ(じゃ)」も古典語では見られないものです。中世には、このように「口語(口頭語、話し言葉)」が発達し、「文語(文章語、書き言葉)」との相違が大きくなったと考えられています。
日本語学の分野では、日本語を歴史的に眺めるとき、大きく「古代語」/「近代語」と二分して考えることがあります。その境目に位置するのが、ちょうど中世という時代です。特に、中世後期にあたる室町時代は、古代語らしさが薄れ、近代語的な様相を濃くしていく過渡期とされています。『伊曽保物語』の例からも、そのことを実感していただけるのではないでしょうか。
そうしてみると、古代語の時代にタイムスリップした場合や、(近代語にあたる時代でも)読み書きを介した場合のコミュニケーションには苦戦するかもしれませんが、今回の問いである「戦国時代」における直接の対話であれば、何とか意思の疎通ははかれるように思います。なお、宣教師らが規範として学習しようとしたのは、当時の政治や文化の中心であった京都周辺の話し言葉であり、『伊曽保物語』にもそれが反映されています。そのため、タイムスリップした人の出身地やタイムスリップ先によっても、理解度が変わることは考えられます。
通じない言葉が教えてくれる、日本語の今と昔
また、現代では廃れてしまったり、あるいは意味や形式が変容したりした言葉が、コミュニケーションを阻むことも考えられます。
たとえば、先の『伊曽保物語』の文章を現代語に訳するにあたっては、「声をはかりに」→「声を限りに」、「叫ぶ程に」→「叫ぶので」のように、いくらか言い換える必要がある箇所がありました。
「はかり」は「限り、際限」の意味を表し、たとえば「足をはかりに[=足の続く限り](虎明本狂言集・磁石〔1642年写〕より)」のように、中世~近世にかけては「……をはかりに」の形で「……のあらん限り」の意味で用いられていたものです*2。
また「程に」は、名詞の「程」に格助詞の「に」が付いたものですが、これは中世によく用いられた、原因・理由を表す接続表現として知られています*3。
平家の由来が聞きたいほどに、あらあら略してお語りあれ
(天草版平家物語〔1593年〕)
[平家の由来を聞きたいので、おおよそのところをお語りください]
こしをぬかひたほどに、腰のようなるまで、おのれが宿へつれていてやしなへ
(虎明本狂言集・柿山伏〔1642年写〕)
[腰を抜かしたので、腰が良くなるまで、お前の宿へ連れて行って養生させよ]
しかし、現代語ではこのような「ほどに」の使い方はせず、現代語訳で言い換えたように、「ので」「から」など別の形式を用いることが一般的です。ここにも、形式の移り変わりの一例を見ることができるでしょう。
他方、現代人にとっても、その時代にまだ使われていない言葉を伝えることには困難が伴いそうです。たとえば、現代の高校生がタイムスリップ先で自身の説明をするとして、「高校生」「制服」といった、当時にない概念を表す言葉はまず通じないことが予想されます。
私達が普段使っている言葉には、明治期以降に流入した事物や概念を言い表すために新たに取り込んだ外来語や、新しく造語された漢語(漢字の音読みを用いた語)などが少なくありません。基本的な語のように見えても、実は外国語の翻訳から生まれた新しい語(「概念」「必要」など)ということもあります。
タイムスリップを題材とした作品の中には、現代人と戦国時代の人々とが関わるうちに、お互いの言葉を覚え、真似て使うような描写も見られます。フィクションの世界ではありますが、そのように時間をかけて互いに学習を重ねることでも、言葉が通じる可能性は高くなるでしょう。
難しい問いですが、戦国時代でなんとかやりとりができたとして、どういったところに問題が起きるのか、またはどのくらい時代を遡ると困難になるのか(時代を下るとスムーズになるのか)などと考えをめぐらすことが、日本語の変化を考える良いきっかけになるように思います。
*1─イエズス会の宣教師たちの手によって、熊本県天草で出版された活字本の総称。天草本、キリシタン版とも。『天草版伊曽保物語』は、『天草版平家物語』(鎌倉時代に成立した『平家物語』を室町時代の口語で著したもの)、『天草版金句集』と合冊で、大英図書館所蔵の一冊が伝わるのみであり、「天下の孤本」として貴重な資料のひとつ。
*2─『日本国語大辞典 第二版』小学館、「はかり」の項を参照。
*3─吉田永弘(2019)『転換する日本語文法』和泉書院(初出は吉田永弘〈2000〉「ホドニ小史─原因理由を表す用法の成立─」『国語学』第51巻3号)
*野村剛史(2013)『日本語スタンダードの歴史─ミヤコ言葉から言文一致まで』岩波書店
村山実和子(むらやま・みわこ)…日本女子大学 文学部 日本文学科 講師。日本語の歴史上、新たな語を造るときにどのような方策をとってきたのか、ということに関心がある。