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帆立の詫び状

2024.03.19 公開 ポスト

ノーチラスをめぐる戦い①新川帆立

以前、腕時計について書いた。パテックフィリップのカラトラバを買った経緯を語り、とても気に入っているので、腕時計はその一本で十分だという内容だった。運命の一本とそのまま添い遂げて、めでたし、めでたし・・・・・・となればベストなのだが、そうはならないのが私である。

 

ある日、私はロンドンのオールド・ボンド・ストリートを歩いていた。ハイブランドショップや高級時計店の建ち並ぶエリアである。見るとほしくなるのだからよせばいいのに、道楽者のさがなのか、定期的にキラキラしたものを見にいかないと心がどんどんしぼんでいって、元気がなくなってくる。だから「見てるだけ」と言い訳しながら、エルメスパトロール(通称エルパト)で鍛えられた脚力で、世界随一の高級ブティック街を練り歩く。

↑これはロレックス専門のヴィンテージショップ。ロレックスのヴィンテージはバリ―ションが多くて面白い。

すると、ある時計店のショーウィンドウに光り輝くような時計が飾られていた。こじらせた時計コレクターがまれに言う「時計と目が合う」という現象だ。私は店に駆け込んだ。普段はつたない英語力が、買い物の交渉となると格段に向上する。お目当ての時計をケースから出してもらい、試着した。ほれぼれするほど、美しく、かっこいい時計だった。値段を見ると、13000ポンド。日本円に換算すると250万円くらいである。「たっけえな・・・・・・」と生唾を飲み込んだ。だが、時計の出で立ちや性能を考えると、この種の機械式時計としては適正価格だ。中古品なのだが、製造年はそう古くなく、目立った傷もない。口座残高を頭に思い浮かべ、次の瞬間には「よし、買おう」とカードを出していた。

 

こういうとき、心臓がバクバクして、「私、この時計、買っちゃうのか」となぜか絶望的な気持ちにすらなるのが不思議だ。緊張を抑えながら、いかにも買い慣れていますという雰囲気で決済に進んだ。だが、どうもカード決済が成功しない。おかしいな、と思って、値札をもう一度見ると「130000ポンド」とある。「あれ?」と思った。0が一個多い。頭が真っ白になるという経験を生まれて初めてしたかもしれない。この時計は250万円ではなく、2500万円だったのだ。

 

非常に漫画的で、しかも古い表現なのだが、心の中で本当に「どっひゃー!」と思った。慌てて店員に謝り、買い物を中止した。クレジットカードの上限額にこれほど感謝した日はない。口座から即時引き落とされるデビットカードを使っていたら、決済が成功して、手元には超高級時計と、大きく目減りした預金口座が残されたことだろう。

 

鼓動を抑えながら退店し、近くのスターバックスでクールダウンした。うっかり大きな買い物をしなくてよかったという安堵とともに、素朴な疑問が強烈に湧き上がった。あの時計が2500万円というのは、明らかにおかしい。

 

かっこいい時計だけど、ステンレススチール製の三針時計なのだ。複雑機構が搭載されているわけでもなく、貴金属が使用されているわけでもない。きわめて美しく洗練されているが、ただのスポーツウオッチだ。しかも中古品である。確かに着用感は抜群にいい。スポーツやアウトドアに伴う衝撃に耐えるだけのムーブメントを、あの薄さで実現している点もすごいと思う。だが2500万円に値する技術なのかというと、疑問である。

 

無知というのは恐ろしいものだ。調べてみて驚いた。私が買おうとした時計は、当時、二次流通価格急騰中の大人気モデル、パテックフィリップのノーチラスだったのだ。しかも一部の人気モデルの生産終了が発表されたために、ファンが悲鳴をあげていた時期だった。入手困難の稀少品のため、定価の四倍、五倍の価格で、二次流通しているらしい。

 

時計好きの人からは「おいおい! ノーチラスが大人気なことくらい知っとけよ」と突っ込みが入るだろう。だが当時の私は、パテックフィリップのカラトラバに大満足していたので、他の時計の販売状況や相場をまったく追っていなかった。他方でムーブメントを調べるのは好きだったので、ムーブメントの心臓ともいえるレバー脱進機の動作をYouTubeでひたすら眺めるという、やや変態的な愛好方法をとっていた。

 

ノーチラスという名前を聞いて、幼少期の思い出が一気によみがえった。私にとってのノーチラスは、なんと言っても、ジュール・ヴェルヌの『海底二万里』の登場する「ノーチラス号」である。植民地主義全開の列強国への復讐を誓うネモ船長とともに、深海を進み、世界を一周する冒険小説だ。小学生の頃に繰り返し読んだ記憶がある。大人になってから改めて読み返すと、これでもかというほどの深海の景色と海の生き物たちの描写に圧倒されるうえに、自らの理想追求のために世界に背を向けていくネモ船長の孤独な心境に自らを重ねてしまう部分も多く、じんわりと胸が熱くなった。

 

クオーツショックで機械式時計が窮地に立たされていた70年代に、時計の王様パテックフィリップが打ち出した挑戦的なモデルの名前としても、反逆孤高の潜水艦「ノーチラス」はぴったりだと思った。その日の夜、ウェストエンドでミュージカル『レ・ミゼラブル』を観たのだが、「民衆の歌」(戦え、それが自由への道、戦う者の歌が聴こえるか・・・・・・)を聴きながら、唐突に決意した。あの時計、ノーチラスを絶対手に入れるぞ、と。

 

といっても、入手困難の大人気モデル、ノーチラスをどうやって入手するのか。戦いの記録は次回に続く!

↑レ・ミゼラブルは大変に良かった。私は原作小説も好きだ。コゼットより断然エポニーヌ推しである。

関連書籍

新川帆立『帆立の詫び状 てんやわんや編』

デビュー作『元彼の遺言状』が大ヒットし、依頼が殺到した新人作家はアメリカに逃亡。ディズニーワールドで歓声をあげ、シュラスコに舌鼓を打ち、ナイアガラの滝で日本メーカーのマスカラの強度を再確認。さらに読みたい本も手に入れたいバッグも、沢山あって。締め切りを破っては遊び、遊んでは詫びる日日に編集者も思わず破顔の赤裸々エッセイ。

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帆立の詫び状

原稿をお待たせしている編集者各位に謝りながら、楽しい「原稿外」ライフをお届けしていこう!というのが本連載「帆立の詫び状」です。

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新川帆立

1991年2月生まれ。アメリカ合衆国テキサス州ダラス出身、宮崎県宮崎市育ち。東京大学法学部卒業。弁護士。司法修習中に最高位戦日本プロ麻雀協会のプロテストに合格し、プロ雀士としても活動経験あり。作家を志したきっかけは16歳のころ夏目漱石の『吾輩は猫である』に感銘を受けたこと。2020年に「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した「元彼の遺言状」でデビュー。他の著書に『剣持麗子のワンナイト推理』『競争の番人』『先祖探偵』『令和その他レイワにおける健全な反逆に関する架空六法』『縁切り上等!』などがある。

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