4月5日に開幕するF1日本グランプリ。母国凱旋となるのが、現在日本人唯一のF1レーサーとして活躍する角田裕毅だ。前戦オーストラリアGPで7位入賞を果たし、自身3度目の母国レースで初の入賞に期待がかかる。若きレーサーはいかにして、世界でたった20人というドライバーの頂に登り詰めたのか。F1レーサー角田裕毅誕生の物語を、ホンダF1「第4期」の活動を追ったドキュメンタリー『ホンダF1 復活した最速のDNA』から紹介する。
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ホンダから生まれた日本人ドライバー
ホンダは、次世代の日本人ドライバーの育成にも力を入れている。トルコGPでハミルトンを8周にわたって抑えた角田裕毅もそのひとりである。これまでホンダは、中嶋悟や佐藤琢磨といった日本人F1ドライバーを世界に送り出してきた。
F1ドライバーは、世界で20人しかいない特別な存在だ。そもそも、その資格を得るために、FIAが発給するスーパーライセンスの取得が必要とされる。
ライセンス取得の登竜門となるのが、F1の下位カテゴリーにあたる、FIA F2だ。
「走っているときは『無』に近い」
2020年シーズン、そのF2でひとりの日本人ドライバーが躍動した。
当時20歳の角田である。
「恐怖感はないですね。走っているときは『無』に近い。何も考えないで走っていられるんです」
そう語る角田は、8月のシルバーストンで初勝利を挙げた。
その角田に熱い視線を送っていた人物がいた。レッドブル・レーシングのチームアドバイザーで、レース活動を統括するヘルムート・マルコである。
マルコは、4度の年間チャンピオンに輝いたセバスチャン・ベッテルや、現在のレッドブルのエースドライバー、マックス・フェルスタッペンを見出した名伯楽。そのマルコは、2019年、F2のさらに下位カテゴリーのFIA F3時代からすでに角田に注目していた。
「われわれには若くて期待できる日本人ドライバーがいる。ユーキ・ツノダだ。彼はわれわれレッドブルジュニアチームの指導を受けながらF3を戦っている。狙いは、彼がF1で勝てるほど競争力があるかを確かめることにある」
4歳から始めたレース活動
角田がレースを始めたのは、4歳のときだった。趣味でレースに出場するほど大の車好きの父、信彰に連れられてサーキットに行ったのが初めての体験だった。角田は、そこから入門カテゴリーのレーシングカートで基礎を学んでいく。
家族旅行の帰りに立ち寄ったサーキットで、カートの講習会に参加したときのこと。
父から授けられた随一のブレーキング
直進して係員の立っているところまで行ったらブレーキを踏むというメニューで、信彰はこっそり息子にこう伝えた。
「もっと奥でブレーキを踏みなさい」
その理由を、信彰はこう説明する。
「もちろん、指示された場所でブレーキを踏むのがもっとも良い位置なんだろうし、そこでブレーキを踏まないと、先にあるクッションにぶつかってしまうかもしれません。でもそれによってブレーキの感覚、距離感、物差し(基準)が1回で体得できるのです」
自分の限界と、車の限界を一度見極めれば、ギリギリまで攻めたドライビングができるということを、信彰は我が子に教えたのである。
「小さい頃から父にすべてを教わりながらレースをやってきたので、基礎の部分は今も変わっていない。ベースをつくり上げてくれたのは父なのです」(角田)
16歳で鈴鹿のドライビングスクールに
16歳になった角田は、さらにドライビング技術を磨くため、「鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラ(SRS ― F)」に入校する。日本人のF1ドライバーを育成するため、1993年に設立されたドライビングスクールだ。
2018年まで25年間にわたって校長を務めたのが、日本人初のフルタイムF1ドライバー中嶋悟である。主任講師を務める佐藤浩二は、入校してきた当時の角田の印象をこう語る。
「喜怒哀楽がはっきりしていて、速いタイムが出るとニコニコしてスキップを踏むぐらいの感じに見える一方で、タイムがちょっと良くないと、わかりやすいぐらいに落ち込むんですよ」
当時、SRS―Fのスカラシップ選考会で上位2位に入ると、ホンダの育成ドライバーとして、F4に参戦できることになっていた。しかし角田は3番の成績に終わった。ホンダの支援なくして、次のステージには進めない。
「何も言わずに号泣していました。ものすごく悔しそうにしていたのは、今までの生徒のなかでも一番だったかもしれません」
そう佐藤は振り返る。
(文中敬称略。企業名、肩書きは当時のもの)
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