愛を与えたり、与えられたりすることは、花の成長に似ていると思う。
恋愛はいつも、種と出会うところから始まる。愛情という水を注いだり注がれたりして、芽が出て開花する。
前回「友達だと思っていたのに穴モテだった」という話を書かせてもらった(連載第一回目読んでない方読んでくれ!)。男女が恋愛関係になってしまうのは一体いつからなのだろうかと考えた時、私が穴モテする原因のひとつは無差別に水をやってしまうことだと気付いた。
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昔一本の花を愛でたことがある。ずっと欲しかった花だったから、手に入れた時は嬉しかった。
今考えればそれは毒持ちの花で、いい男だったとはお世辞でも言えない(未だクズ男だったと認められないのは記憶が美化されたからだろうか)からこそ、それはとても綺麗に見えたんだと思う。
愛の注ぎ方を知らない私は、愛情を注ぎ続けた。するとその花は根を腐らせて、勝手に枯れてしまった。
振られたのだ。
私の愛情だけがたっぷり残った。それは未練に変わって、やがて憎しみに変わった。今ではもうその人のことを思い出したりしないが、あの時の傷は深く、当時は雪が降るだけで、クリスマスがくるだけで、その人と同じ車が通るだけで、涙が出た。
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それからだろうか。出会う人、出会う人、全て平等に水をやるようになった。
もしいつか嫌われて後ろから刺されたり、逆に私が嫌いになってしまうより、餌をやって近くに置いておく方がいい。
裏切られるのはつらい。
その人に裏切ってやろうという意思がなくても、また私が大量の愛情を注ぎすぎて根が腐り、枯れてなくなることも怖い。臆病だから、手当たり次第に水をやっているのだと思う。ひとつを大きく育てるから、失った時に気が付いて悲しくなるのだ。
小さな花をたくさん育てればいい。そうやって、一輪挿しの花瓶ではなく、大きな花壇を心に持つようにした。
一人いなくなっても気が付かないくらいの。
そもそもこの世に一本の花だけを愛でられる人間がいるのだろうか。美女と野獣のプリンスさえ、呪いがあったからこそ一輪の花を愛でていられたのに。
勘違いしてほしくないのだが、水をやるからといって育った全ての花を摘むわけではない。それじゃあただの浮気者だ。
恋愛的に好きだと言われても、言われてなくても。好意に気付いていても、気付かなくても、平等に愛情を注ぎたい。ただ言葉通り「好き」なのだ。
人間が好きだ。可愛くて、愛おしくて仕方ない。
でもその反面、狡くて汚いから嫌いでもあって、興味津々で近付いてくるくせに、撫でられたらブチギレる野良猫みたいな思想なのだ。我ながら面倒臭い。
愛情の花壇で無差別に水をやると聞くと、八方美人や思わせぶりだと思うかもしれない。ただ、どれが正解かわからないのに選ぶなんて、私にはできないと思うだけだ。
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きっと皆も無意識で心の中に花壇を持ち合わせていると思う。
マッチングアプリが最近流行っているけれど、あれも花壇と一緒だ。
沢山の種の中から、いいなと思った種をいくつか選び、育てた花を見て、どの花にするか選ぶ。
何が育つかわからない種を最初からひとつ選べる人なんて存在しない。出会ったばかりで好き好きいってくる男は当たり前に信用出来ない。
何が咲くかもわからない一粒の種を育てて花を咲かそうとする人なんて、怖すぎる。あたしがドクダミだったらどーすんだ。刈っても刈ってもまた生えてくるぞ。
簡単に花を咲かせる男も、簡単に枯れちまう男も、嫌い。私に勝手に期待して、勝手にいなくなるなんて最悪だし、無駄に傷付けたり、傷付きたくもないのだ。
私のこの愛情の花壇から、いつか大きな花が咲いてくれたらいい。
花を通り越して、大きな木になって、空っぽになった私を雨から私を守ってくれたらいい。
私の有り余った愛のエネルギーを全部受け止めてくれるような、大木に育って私を愛しておくれ!
歌詞には書けない愛の話
シンガーソングライターとして活動するほのかりん。歌という表現を超えて、一人の女性として、心のうちをさらけだす。表現者として新たな挑戦となるエッセイ、新連載!