なぜある人にとっては何の変哲もないモノが、別のある人には感情を揺さぶる特別な存在になるのか。こうした問題に答えるのが「プロジェクション」の科学だ。世界を見る時、私たちは心で生成されるイメージを現実の存在に投射し、重ね合わせている。この「プロジェクション」の概念が、今、心をめぐる謎を解き明かしつつある――。
最新の研究から人間の本質に迫る知的興奮の一冊、鈴木宏昭さんと川合伸幸さんの共著『心と現実 私と世界をつなぐプロジェクションの認知科学』より一部を抜粋して紹介します。
プロジェクション科学はなぜ必要か
「プロジェクション」という考えが誕生したのは、前述したように現実世界と心の世界がどのように結びつくのかという難問に対して、答えを見つけ出すためである。ここではこの問題に対して、認知科学がどのようにアプローチしてきたのかを紹介しよう。
難問への答え① そもそも心を考える必要はないのではないか?
心と現実の問題をクリアにするためには、そもそも心をまったく介在させなければよいのではないか。これが、「素朴実在論」という考えである。目の前にあるモノは目の前にある。我々は表象を抜きにモノ・コトをあるがまま直接的に知覚している。そうなれば当然、表象を生み出す心も必要ない、というのがこの仮説だ。
「素朴実在論」では、表象という媒介物を仮定しないことにより、心と現実の対応問題を考える必要がなくなる。
ただ素朴実在論は簡単に破綻する。なぜならば私たちは物理的に存在しないものを知覚、経験するし、物理世界ではあり得ないことも知覚経験するからである。
図1─2を見ていただきたい。
左側①はカニッツァの三角形と呼ばれているものである。
どんな人でも左の絵の真ん中に白い三角形が見えると思う。しかし三角形というのは平行でない三本の直線が作り出す形なのだが、そんな直線はこの図には物理的に存在しない。存在しないのだが三角形は見える、つまり物理世界にはないものを知覚している。
図1─2の右側②はネッカーの立方体と呼ばれるものである。しばらくの間これを見ていると、abcdが前面、efghが前面となる立方体が交互に現れる。
このような知覚がなぜ問題になるのかといえば、図形がアイデンティティに関わる物理的な制約を、逸脱しているからである。
アイデンティティというのは日本語の中では「自分らしさ」という意味で使われるが、元々は自己同一性のことを指す。つまりあるものXはXなのであり、YとかZではないという意味だ。一つの物体(人間も含む)は一つのアイデンティティを持つ。
しかしこのネッカーの立方体は、abcdが前面となる立方体と、efghが前面になる立方体という二つのアイデンティティを持っている。これは物理的にあり得ない。私たちが物理世界のモノをそのまま知覚しているのだとすれば、こうしたことは起こらないはずだ。
難問への答え② 頭の中だけですべてが完結していると考えてもいいのではないか?
なぜ心と現実世界が結びつくのか。難問に対するもう一つの回答例は、頭、つまり脳の中ですべての事象が自己完結していると考えても別にかまわないのではないか、というものだ。
実際、脳の中には世界の地図のようなものが存在している。場所細胞というものや、グリッド細胞と呼ばれるものがそれだ。
場所細胞というのは海馬に存在し、自分が一度訪れたことがある場所に再度行くと、活動を始める。私たちはこの働きによって、現実の環境の中で訪れたことのある場所を認識することができる。
一方のグリッド細胞というのは海馬ではなく、その近くに存在し、世界を碁ご盤ばんの目(実際には四角ではなく、三角模様の碁盤)のように目の前の場面を区分けして、任意の区画に自分が移動すると活動を始める。今自分がいる場所が空間のどの位置なのかを特定するのだ。
これらは頭の中にある世界地図だと考えることができる。つまり人間も含めた動物は外界を認識するために、地図を脳の中に持っているというわけだ。これらを発見したオキーフとモーザー夫妻は、二〇一四年にこの業績でノーベル生理学・医学賞を受賞している。
こうしたことを踏まえれば、外界の刺激から感じたことをこの脳の中のマップに連結させれば、世界に何があるのか、どこに探しているものがあるのかはわかるのかもしれない。だとすれば、前で述べたことは謎でもなんでもなく、外界で起きていることもすべて脳の中で自己完結する事象だと考えてもよいではないか、というわけである。
しかし、この「脳内自己完結説」の筋で考えれば、私たちは世界を見ずに、脳の中に出来上がる地図だけを参照して行動をしていることになる。わかりやすいたとえを使えば、目隠しをしてスマホの行先案内に従って歩くようなものだ。
スマホは利用者の位置情報を用いて、ある場所から別の場所へ移動するための細かな指示を出してくれる。「30メートル先を左折し、50メートル進んだところにある信号を右に曲がると目的地がある」といった内容である。現在のスマホでは30メートルなどという数字が出てくるが、もしこの位置情報サービスが進化して、あなたの歩幅も正確にわかるとすると、「50歩歩いてから左に曲がり──」などと教えてくれるかもしれない。障害物や対向車がいなければ、これでも確かに目的地には着ける。
しかし私たちは現実世界とは無関係に、脳の中の地図だけを参照して行動をしているのだろうか。私はこの仮説は正しくないと思うし、多くの読者の方は直感的に私に賛成してくれるのではないだろうか。
なぜなら、世界は実際に見えており、その世界の中で私たちは実際に活動を行っている。そんな実感を私たちは持つ。なんだかわからないけど、脳の命令に従っていたら、目的地に着いていたというのは受け入れがたい。
「脳内自己完結説」をさらに拡張すると唯脳論と呼ばれるものにたどり着く。脳内自己完結説では、外界から刺激を受け取り、それに対して脳内で表象が出来上がり、そこで処理が進められると考える。一方、「唯脳論」とは、外界に存在しないモノ、たとえば思考や気持ちのようなものも含めて、世界はすべて脳が生み出したものである、と考える(心がすべてと言いたければ唯心論となる)。
これはさらにおかしな事態を生み出す。私は目の前のコーヒーを飲んで癒されるわけだが、この考えでは私がコーヒーという脳内の産物を脳内で飲むことにより脳内で癒されることになる。私が脳内の恋人と結婚し、脳内で子どもを産み、脳内で慈しみ育てる。そうしたことが認められるだろうか。
ちなみにここで登場する「私」も脳内産物だ。ファンタジーとしては面白いし、そういう映画(ウォシャウスキー兄弟監督の『マトリックス』)や小説(鈴木光司の『ループ』)などが実際にある。そしてどちらもエンターテインメントとしてすごく面白い。でもそれはファンタジー、フィクションに過ぎない。
こうした唯脳論的な世界観を本気で否定しようとすると、けっこう難しい。なぜなら否定しようとする私や否定したことすべてが、すでに脳内の産物である可能性があるからだ。脳内の産物に否定されたところで、それ自体が脳内の出来事だと受け取られてしまうので説得力がない。しかしそれはやはり科学者として拒絶したい。科学というのは客観的な世界、つまり私たちとは無関係に独立に存在する世界を認めている。
難問への答え③ 身体が世界と心を結びつける
次に紹介する難問へのアプローチは、「身体を持ち込む」というものである。身体は世界の中に物理的に存在している。私たちは、それを用いた行為によって世界とさまざまな形で相互作用している。だから身体と行為を認知の理論に取り込むことで、世界と心は結びつくはずである。
物理的な世界と心がどのように結びつくのか。最初に挙げた難問は、身体とその行為というものに無関心だから生じたのだと科学者は考えた。
またこれまでに述べた「心は必要ない説」と「脳内自己完結説」の二つのアプローチも、心、脳を身体とは無関係に扱ったためにうまい解決が見いだせなかったから出てきたのではないだろうか。
実際、初期の認知科学にとって、身体は行為を行うための道具というか、脳に対する奴隷のように見なされていた。指示を出す中心部のシステム、つまり脳について探究すれば認知科学の研究は十分だと考えられてきたのだ。
しかし90年代に勃興し、21世紀になり花開いた身体性認知科学は、身体を末梢のものとして扱うこれまでのアプローチを厳しく批判した。進化的に考えれば、知性というのは身体がうまく環境に適応するために作り出されたものである。だから身体は知性の前提である。また身体を持っているからこそ知覚や行為が実行される。その意味でも身体と認知を切り離すことは適切とはいえない。
こうした観点から、身体性認知科学が興隆し、これまで身体は全然関係がないと見なされてきた知覚的な判断、人物の評価、文章の理解、ひらめきを必要とする問題解決など、さまざまな分野で身体と認知、知性との関わりを明らかにしてきた。また認知言語学という分野では、言語という人間に固有の機能が、身体と一体となっていることを明らかにもした。