新川帆立さんの野心作『女の国会』は政治をリアルかつ親しみやすく描いたノンストップ・ミステリ小説。
政治闘争に巻き込まれながら、自分の持ち場で踏ん張る女性たちの姿に、明日へのエネルギーをもらえます。
全6回の試し読み、第1回です。
* * *
女に生まれてごめんなさい。
お父さん、お母さん、迷わくをかけました。
わたしは男に生まれたかった。お父さんもお母さんも、そう望んでいたよね。政治家としてやっていくなら、男のほうがだんぜんいいから。
任期が終わるまではガンバろうと思っていたけれど、ダメでした。
家の名前に泥をぬることを、おゆるし下さい。
この秘密を抱えたまま、生きていくことはできない。
1
永田町は雨だった。三月にしては肌寒い。
沢村明美は傘も持たずに、議員会館を飛び出した。通りでタクシーをとめる。
「天梅酒店まで」
このあたりを流しているタクシーなら、これだけで通じる。
年配の運転手が「近いね」と舌打ちをしてから車を出した。酒屋には数分でついた。料金を払うと、領収書をもらう暇すら惜しんでタクシーをおりた。
交差点の角にある三階建ての建物には、金字で「永田町 天梅」と刻まれている。
酒と煙草の自動販売機の前を通りすぎて、店の引き戸を開けた。
奥のカウンターに小太りの中年男が座っている。店主の菱田だ。つるつるの頭と下ぶくれの顔が、七福神の布袋様を思わせる。
「おっ、サワちゃん」
菱田が嬉しそうに頬をゆるめた。
沢村は月に数度、天梅酒店を訪れている。贈答用に酒を買ったり、頂き物のビール券を換金したり、何かと用向きがあるからだ。
「ジュース飲む?」
菱田は瓶入りのガラナを一本取り出して、レジの横においた。
「いえ、今日は」
「まあまあ、ゆっくりしていきなよ」目尻をさげながらガラナの栓を抜いた。
沢村はまだ二十九歳だ。
政策担当秘書としては抜群に若い。しかも女性である。
だからなのか、菱田は何かと沢村を気にかけ、ジュースをおまけしてくれたり、菓子を分けてくれたりする。ガラナを出してきたのも、沢村が北海道出身と知ってのことだろう。
近くの丸椅子に腰かけ、ガラナのつがれた紙コップに口をつける。癖のある甘みが、張りつめた気持ちを少しだけゆるめた。外の雨はざあざあ降りになってきた。
「法案、ダメだったって、本当ですか?」
沢村は単刀直入に訊いた。
「どの法案?」と、菱田は口の端だけ動かして言った。
「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律、の改正案です」
「長い名前をよくスラスラーッと言えるね。サワちゃんはロースクール出身だもんねえ」
ほめそやす口ぶりだったが、沢村の胸は波立った。
ロースクールを卒業したものの、司法試験に三度落ちた。法曹の道は厳しいと悟ったのはそのときだ。
心機一転、第二新卒で就活をしたが、たいてい一次面接で落ちた。「融通がきかなそう」というのが、一番よく聞かれる不採用の理由だった。ただでさえ、「二十七歳、職歴なし」のハンディキャップを抱えている。
転機は、ロースクール卒業生向けの合同就職説明会で訪れた。配られた求人票の中に、国会議員の政策担当秘書の募集があった。資格試験に合格したうえで、国会議員に採用されると、政策担当秘書になれるという。
沢村の場合、司法試験に向けて勉強していたおかげで、政策担当秘書の資格試験はなんとか突破することができた。
ところが第二ステップ、国会議員からの採用が曲者だった。
政策担当秘書の年収は九百万円ほどである。公設第一秘書、公設第二秘書と比べても、一番高い。長年秘書をつとめた年長者がつくことが多く、なかなか席が空かない。
募集が出ていたのは、野党第一党・民政党所属の衆議院議員、高月馨の事務所だけだった。
どういうわけか、沢村は高月に気に入られ、とんとん拍子で採用が決まった。
働き始めてまだ一年ちょっとだ。性同一性障害特例法の改正案は、沢村が扱った一番大きな仕事だった。
「法案は通りそうにないと国民党の議員秘書たちが噂していたって、本当ですか?」
「ああ、ホントだよ。連れ立ってやってきたやつらのうちの一人がね、『あの特例法は、うちの先生が総務会で落とすから大丈夫』って言ってたんだ。もしかしたらこれ、サワちゃんの耳に入れておいたほうがいいかもと思って、電話したんだけど。役に立った?」
「ええ、ありがとうございます」
と言いながらも、視線は腕時計に向けた。
時刻は午前十一時十分である。
与党第一党・国民党の総務会はすでに終わったはずだ。
性同一性障害特例法の改正案は、超党派の議連を組んで原案をつくりあげた。先日、国民党の部会と政調審議会を通したばかりだった。国民党と連立内閣を組む与党第二党・公平党への根まわしもすませている。万全の態勢のはずだった。
「噂話をしていた秘書たちって、誰ですか?」
菱田はすらすらと、数名の秘書の名前と、担当議員名をあげた。さすが永田町の酒屋店主というべきか、人の顔と名前を覚えることについて、菱田の右に出るものはいない。
沢村はジャケットからメモ帳を取り出して、あがった名前を書きつけた。秘書になってからまだ日が浅く、知らない名前も多い。事務所に戻ったら、國會議員要覧と突き合わせて確認するつもりだった。
「法案のこと、高月先生に教えた?」
「とり急ぎメールは入れましたけど」
「けど?」
「先生は今、委員会で質問をしているはずです。メールは見られていないと思います」
「メールを見たら高月先生、暴走するだろうなあ」菱田は口もとに笑みをうかべながら言った。
沢村はうなずいた。苦々しい思いが込みあげてくる。
高月は議連の中心的なメンバーだった。秘書の沢村も議連に同行し、議論の一部始終を目にしている。人権派の高月は、この件にかなり熱心だった。各省庁との交渉を一手に引き受け、反対や懸念を示す業界団体を一つずつ説得してまわった。「土下座するなら話を聞いてやる」と言われれば土下座した。出された湯飲みに目の前で痰を入れられ、「これを飲むなら、協力する」と言われたこともある。高月は迷わず飲んだ。
沢村にとってはカルチャーショックの連続だった。人は理屈で説得されない。文字通り身体を張って覚悟を示さないと、話すら聞いてもらえなかった。粘り強く障害を取りのぞき、ようやくすべての根まわしを終えた。
特例法改正案の原案は、沢村がつくった。議連での議論を踏まえて、条文案を書きおこしただけだが、達成感はあった。
自分が書いた条文を見ると、しみじみと嬉しかった。法曹にはなれなかったけれど、法律をつくる手助けができている。やっと社会に居場所を見つけた気がした。
それなのに、こうもたやすく、法案は潰れてしまうのか。
「高月先生、また言うのかな、アレ。ほらアレだよ」
菱田は含み笑いをした。
「先生なら言うでしょうね。アレを。それでまた、テレビやネットで冷やかされるんです」
沢村はため息をついて立ちあがった。
「そろそろ戻ります。先生が委員会から出てきたら、騒ぎになりそうなので」
「とめに行くの?」
「とまるかは分かりませんが」
ガラナの礼を言って店を出る。
雨足は強いままだ。覚悟を決めて歩道に飛び出し、タクシーに向かって手をあげた。どこからか、湿った土のにおいがした。
女の国会
国会のマドンナ”お嬢”が遺書を残し、自殺した。
敵対する野党第一党の”憤慨おばさん”は死の真相を探り始める。
ノンストップ・大逆転ミステリ!