新川帆立さんの野心作『女の国会』は政治をリアルかつ親しみやすく描いたノンストップ・ミステリ小説。
政治闘争に巻き込まれながら、自分の持ち場で踏ん張る女性たちの姿に、明日へのエネルギーをもらえます。
全六回の試し読み、第五回です。
* * *
5
四月半ばの午後一時、本会議場は重々しい空気に包まれていた。
沢村は上階の傍聴席から首をのばし、議長席を見た。
「議員朝沼侑子君は、去る三月十八日に逝去されました。誠に痛惜の極みであり、追悼の念にたえません。総員起立」
江山衆議院議長が言った。
この日はさすがに居眠りをする人がいない。議員たちはそれぞれに無表情のまま腰をあげた。
傍聴席に座っていた沢村も起立する。
「衆議院は、我が国のために力を尽くされ、少子化担当大臣、法務大臣の重責にあたられました、議員朝沼侑子君の逝去に対し、つつしんで追悼の意を表し、うやうやしく弔意をささげます」
議員たちは再び席につく。
それを見まわして、江山議長は口を開いた。
「長岡真彦君から発言を求められています。発言を許します。長岡真彦君」
分厚い眼鏡をかけた中背の男が起立し、登壇した。
長岡は国民党国対委員長である。国対副委員長をつとめた朝沼の直近の上司にあたる。追悼演説を行う議員としては穏当な人選である。
「国民党国会対策副委員長、朝沼侑子議員は、去る十八日、心不全のため逝去されました。私は、全議員を代表し、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。朝沼君は昭和×年、東京都武蔵野市に生まれ、雙葉高校を経て、東京大学法学部に学ばれました……」
本会議場の空気がだんだん散漫になっていく。
ある議員は胸ポケットから名刺入れを取り出し、先ほど受け取ったらしい名刺を広げて見ている。せわしなくスマートフォンを操作する者もいれば、舟をこぎ始める者もいる。
それくらい、凡庸で退屈な追悼演説だった。朝沼の経歴をなぞり、かたちばかりの弔意をささげる内容だ。
死因については「心不全」とだけ触れている。シアン化カリウムを飲んだ結果、シアン中毒になり、最終的には心不全に至ったのだから、誤りではない。だが死亡する際、人は必ず心不全に至る。核心部分を隠すために当たり前のことをわざわざ述べているように思えた。
警察の捜査は順調に進んでいた。
朝沼は自らが理事をつとめる日本果樹園連合会の関係者を通じて、シアン化カリウムを入手したらしい。「環境保護団体からのクレームに対応するために、農薬の勉強をしたい。知人の研究室で解析したいから、少量融通してほしい」という殊勝な理由をつけていた。複数の関係者から確認がとれている。
さらに、朝沼の自宅からは、シアン化カリウムが入った小瓶が見つかっている。小瓶に残された指紋は朝沼のものだけだ。死亡推定時刻は午後十時から十二時である。現場には、遺書らしき走り書きが残されていた。
これらの事情を勘案すると、自殺として処理される可能性が高いと考えられている。
もっとも、週刊誌やインターネットでは、朝沼暗殺説も根強い。
朝沼には反社会的勢力との関わりがあったとか、ゼネコンによる談合に融通をきかせたことがあるとか、後ろ暗い噂とからめて、恨みを持った関係者が毒殺したーーなどと推測が重ねられている。
よくもまあ、想像たくましく、事実無根の話をつくれるものだと呆れてしまう。
沢村は顔の向きを変え、高月に目をとめた。後ろから四列目の席である。一年生議員が最前列で、当選回数を重ねれば重ねるほど、席順は後ろになっていく。
高月は硬い表情のまま、やや放心した様子で宙を見つめていた。無力感にさいなまれていることだろう。沢村は胸が痛んだ。
高月は、朝沼の追悼演説を行いたいと内々に手をあげていた。
追悼演説というのは、現職の国会議員が物故した際に行われる演説である。もともとは対立政党の議員が弔意を表するのが慣例だったが、最近は同じ政党の者が担当することも増えている。
対立政党議員による追悼という慣例にのっとれば、野党第一党で、国対副委員長として朝沼とやりあっていた高月が演説を行うのはおかしくない。
だが今回は、朝沼の遺族が許さなかった。
「侑子を死に追い込んだ張本人のくせに、追悼演説をさせろだなんて厚かましい」
朝沼の母親は週刊誌の取材に対してそう語った。
世論は厳しかった。高月が追悼演説に手をあげたこと自体、スタンドプレイだとして批判された。
高月の悔しさを考えると、胸がつまった。もし高月が追悼演説をしていたら、こんなおざなりな内容にはならなかったはずだ。
「……ここに、生前の朝沼君の功績をたたえ、もって追悼の言葉にかえたいと存じます」
長岡が一礼すると、議員たちが一斉に拍手をした。沢村も傍聴席から拍手を送ると、そっと席を立った。本会議場を出る。
衆参をつなぐ廊下を歩き、参議院議員食堂に向かった。
廊下の窓から中庭が見えた。中庭には、楕円形の池がある。朱と白が交ざった鮮やかな色の鯉がゆらゆらと泳いでいた。朱色の尾ひれを目の端で追う。黒っぽいスーツを着た男たちが闊歩する永田町で、久しぶりに色を見た気がした。
衆議院の中庭の池には、色とりどりの鯉がいる。
他方、参議院の中庭には黒い鯉しかいない。
いずれも産地から提供されたものらしい。国をゆるがす新法が成立するときも、すっかり寝静まった夜中にも、鯉たちはあそこで泳いでいる。そのさまを想像するたび、不思議な感慨に包まれる。
参議院議員食堂は、シャンデリアの柔らかい光に包まれていた。寄木張りのフローリングは年季の入った艶を帯びている。
白いテーブルクロスがかけられた丸テーブルに、金堂孝雄が座っていた。グレーのスーツを行儀よく着た三十代半ばの大男だ。大学時代は相撲部に所属していたという。
沢村は片手をあげて挨拶すると、カウンターで国会カレーを注文してから、席につく。
「お待たせ」
「いや、待ってないよ」
と言いながらも、金堂は目の前のカレーを食べ始めている。秘書たちは、早食い早足早口と三拍子そろっていることが多い。
金堂は、三好顕太郎の私設秘書である。スケジュール管理と取材、渉外対応を主に担当している。朝沼の死去以来、ほとんど自宅に帰らず働き通しだという。
さすがに疲れがたまっている様子だ。目の下に濃いクマができている。
顕太郎と高月は、衆参も選挙区も、所属政党も役職も異なる。接点は皆無と言ってもいい。
だが議員のつながりとは別に、秘書同士の交友関係がある。
中高年の秘書が多いなかで、ともに三十前後の二人は気が合った。
「こないだのさ、会議室の予約。あれ、ありがとなあ」
カレーを食べる手を休めて、金堂が言った。
「いいのいいの。うちの高月先生、会議室の予約も最近はめっきり減ったみたいだし」
「偉くなったんだな」
金堂は口元をゆるめた。
二期目、三期目の議員は多忙を極める。派閥の勉強会や業界団体との会合など、様々な会議の調整を行わなくてはならないためだ。関係者との日程調整、会議室の予約、会場設営、飲食物の調達など、やるべきことは多岐にわたる。
もちろん議員本人ではなく、秘書が行うのだが、一つの事務所では手にあまる。そんなときは、他事務所の秘書たちが手を貸す。
特に会議室は、一事務所につき一日一件までしか予約できない。一日に複数の会議の幹事をつとめる場合、他の事務所に頼んで予約してもらう必要があった。困ったときはお互い様という不文律のもと、裏方たちの協力により、国会は回っている。
「それで、かわりといってはなんだけど、顕太郎先生との面会は、やっぱり厳しいのかな」
自分のカレーを受けとってから、沢村は尋ねた。
金堂は濃いげじげじ眉をひそめて、険しい顔つきになった。
「朝沼さんのことだよな」
周囲をさっと見まわして、近くに人がいないことを確かめてから口を開いた。
「厳しいよ。誰も通すなと強く釘を刺されている。最近は自宅と事務所にこもりきりで、人前にも出なくなった。悪いけど、俺は先生につなげない」
「高月先生から面会依頼がきてることは伝えたの?」
「もちろん伝えてある。『やっかいな人に目をつけられたな』と苦笑いしたけど、それきり」
「放っておくと、うちの先生は、顕太郎先生の自宅なり事務所なりに、突撃していきそうだよ。それでもいいの?」
「よくはないけど。仕方ないだろ。本人が面会を一切拒否してるんだから」
「金堂君は何か知らないの? 朝沼さんは何に悩んでいたんだろう」
さあ、と金堂は首をかしげた。
「国民党の秘書たちの間でもよく話題にあがっている。だけど、お嬢が何に悩んでいたのか、誰も見当がつかない。順風満帆そのものだったんだよ。国民党のおじいちゃん議員連中にも愛されて順調に出世していた。プリンス顕太郎と婚約して。もちろん、それが破談になったようなことも聞かない。お嬢の秘書たちも、どうして自殺したのか分からないと首をひねっているくらいだ」
「朝沼さん、誰かから恨みを買っていたようなことは?」
金堂の表情がくもった。「他殺だって言いたいのか?」
「警察が公開している情報からは、自殺とも他殺とも判断がつかないもの」
「でも、自ら入手した毒物を、自宅で保管していたわけだろ?」
「自殺、あるいは他殺を企てて、毒物を入手した。ここまではおそらく本当だと思う。だけどその毒物を自ら飲んだのか、誰かに飲まされたのかまでは分からない」
「それならどうして他殺と決めつけるんだ」
金堂の言葉の端には、やや攻撃的なとげがあった。一本気で、曲がった考えを許さない男だ。秘書としては不器用なほうだが、だからこそ沢村と気が合うのだろう。
「決めつけてないよ。ただ、自殺する理由がないのなら、他殺と考えるのが自然じゃないの?」
沢村がそう言うと、金堂はむすっとした。
「お嬢に恨みを抱く人間はたくさんいる。政治家なんだから、必ず誰かには恨まれているよ。永田町で誰が誰に殺されたって、俺は驚きやしない」
強がるように金堂は言った。朝沼の婚約者だった顕太郎に仕えているくらいだ。金堂自身、朝沼とも交流があっただろう。今回の事件で少なからぬショックを受けているに違いない。
そんな金堂に朝沼の話をふるのは気が引けた。だが、心を鬼にして尋ねた。
「朝沼さんが死亡したときの状況って、もう少し詳しく聞いてないの?」
金堂は一瞬戸惑いを見せたが、結局は口を開いた。
「お嬢の秘書から概要は聞いている。朝沼家には来客用のバカラのグラスが一揃いあった。そのうちの一つがダイニングテーブルに置かれていて、それで赤ワインを飲んだ形跡があったそうだ」
「グラスは一つだけ置かれていたのね?」
「そうだ。状況的にも自殺だろう」
「誰かと一緒に飲んで、同席者のグラスはあとで洗って戸棚に戻したのかもよ」
金堂は首を横にふった。
「お嬢は赤坂の議員宿舎に住んでいた。宿舎への出入りは警察が当然調べたよ。お嬢の秘書によると、十八日の午後、お嬢を外部から訪ねてきた人はいなかった」
議員宿舎には通常のマンション以上の警備体制が敷かれている。正面玄関には警備員が常駐しており、訪問先の確認がないとエントランスから先に進めない。
「それでもなお、朝沼さんの部屋を訪ねることができた人たちは、いるでしょう」
「ああ、そういうことか。確かに、そうだなあ」
金堂は遠くを見つめ、考え込むような表情を浮かべた。
渋い顔のまま、ぽろりと言う。
「もし他殺だとすると、入居している他の議員か、議員の訪問客に限られる、ってわけか」
二人はじっと目を合わせた。
次の瞬間には、同時に吹き出していた。
「ま、ただの妄想だけどな」金堂がとりつくろうように言った。
沢村も内心では、他殺の可能性は低いと思っていた。何より、朝沼は遺書を遺している。ただ金堂にはあの遺書のことを伝えていなかった。他言するなと高月に厳しく言い含められている。
情報公開されていないとはいえ、警察や遺族も当然、現場に残された遺書の存在は把握しているだろう。
朝沼の秘書や顕太郎も知っているかもしれない。彼ら経由で、金堂が知っている可能性もある。だが誰も表立って口にしないはずだ。
「情報は、みんなで秘密にしておくからこそ、価値があるんだよ」
と、高月は言っていた。
「俺の推測にすぎないけど」金堂は目を伏せながら言った。「やっぱり、法案が総務会を通らなかったことが、お嬢なりにこたえていたんじゃないの? あの法案にはやけに熱心に取り組んでいたみたいだから。お嬢のくせに」
お嬢のくせに、と言うとき、金堂の声は震えていた。
朝沼は、十五年にわたる任期中、選挙とオジサン転がしに励むばかりで、これといった政策実績を残していない。国民から見れば、ダメダメな政治家だろう。
だがそれでも、お嬢は確かに、永田町で愛されていた。
「日頃のストレスもあっただろうし、三好派の議員たちに裏切られて、心がぽっきり折れちゃったんじゃないかな。あ、いや、お嬢を責めた高月先生が悪いって言いたいわけじゃないよ」
女に生まれて云々という遺書の内容を考えると、法案とは別のところで悩んでいたように思える。だが、法案が総務会で否決された翌日に亡くなっているという時系列は無視できない。
お嬢にとって、それほど思い入れの強い法案だったのだろうか。
「あの法案は、結局、誰のせいで通らなかったの?」
さりげない口調で訊いたが、内心、かなり気になっていた。自分が書いた条文がかたちにならなかったことに、沢村自身、わだかまりを抱えていたからだ。
「最終的には三好顕造が転んだ」
「最終的には、ってことは、最初に反対の動きをした人が、他にいるの?」
金堂はしまったという表情を浮かべて、視線を外した。
「ここまで話したんだから、最後まで話してよ」
食堂の外から、がやがやと人の気配がした。審議や会合が終わり、議員たちが一斉に廊下に出てきたようだ。
「山縣俊也。最大派閥、陽三会所属の二期目の議員だ」
低い声で言うと、コップを手につかみ、一気に水を飲んだ。
「一度目の選挙は党の全面バックアップを得て、ぎりぎり勝った。ところが二戦目は惨敗。比例復活でなんとか議員バッジを守ったものの、三度目はもう、危ういと言われている。さて、ここでクイズだ」
にやりと笑って続けた。
「選挙で負けそうな政治家は、何に頼る?」
「組織票を持った支援団体?」
「そう。山縣は、『旭日連盟』に頼り始めた」
「旭日連盟って、あの極右保守の?」
にわかに状況が理解できた。
旭日連盟の主張は多岐にわたる。中にはまっとうな主張も見られるが、こと、ジェンダー関連では、非科学的な主張が目立った。「LGBTQは道徳に反する」という独自の見解をもとに、性同一性障害特例法の改正に反対していた。改正案を潰すために、様々な政治家に接触していることは、沢村も把握していた。
「改正案を潰さないと、次の選挙で面倒を見てやらないと脅されていたようだ。議員先生も選挙に負ければただの人。というか、再就職も厳しい、ただの無職だ。山縣は必死になって動いたようだ」
「でも事前の根まわしでは、山縣さんは表立って反対しなかったよ? 現に、国民党の部会も政調審議会も順調に通過したわけだし」
「土壇場、ぎりぎりになって、交渉材料を得たんじゃないか。三好顕造が寝返った総務会の三日前、三月十四日の夜、山縣は顕造と面会している」
「なんでそんなことを知ってるの?」
「俺は顕太郎先生を迎えに、三好家にきていた。駐車場から見たんだよ。顕太郎先生と入れ違いで、山縣が三好家に入っていくのを」
話しすぎたな、と言って口元をナプキンでぬぐった。「探偵ごっこも結構だけど、頑張りすぎるなよ。先生は先生、秘書は秘書。全部をささげる必要はないんだから」
金堂はどこか寂しげに笑うと、食堂を出ていった。
一人残された沢村は、国会カレーを見下ろした。熱が冷めたようで、すでに湯気は消えている。
金堂の言葉を反芻する。
ーー山縣俊也。最大派閥、陽三会所属の二期目の議員だ。
ふと思いあたって、ジャケットの胸ポケットからメモ帳を取り出した。
天梅酒店の菱田から聞き取った議員秘書の名前が書きつけてある。法案は否決される見込みだと話していた秘書たちである。一人一人にあたってみようと思いながらも、時間がとれずにいた。
その中に「井阪修和」の名前を見つけた。担当議員名は「山縣俊也」である。
「井阪さん? どこかで聞いた名前なんだけど」
國會議員要覧を見れば、井阪の連絡先が分かるはずだ。事務所に戻ったら電話をしようと考えながら、ぬるいカレーを口に運んだ。
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