新川帆立さんの野心作『女の国会』は政治をリアルかつ親しみやすく描いたノンストップ・ミステリ小説。
政治闘争に巻き込まれながら、自分の持ち場で踏ん張る女性たちの姿に、明日へのエネルギーをもらえます。
全六回の試し読み、最終回です。
* * *
6
事務所に戻り、アルバイトの女性と電話番を交替した。
デスクには受電メモが残されている。高月の第一公設秘書の出で柄がらからである。
『TO:高月先生 用件:折り返し乞う』 と書かれているのを見て、沢村はため息をついた。嫌な予感を抱きつつ、受話器を持ちあげる。
「お疲れ様です。沢村です」
「沢村さん?」
出柄のがさついた声が響く。
小柄ででっぷりと太った五十代半ばの男だ。十五年前から高月事務所に勤めているためか、沢村を見下した態度を端々に見せる。
「高月先生にお電話いただいたようですね。ご用件をお伺いします」
「ハアッ?」出柄が叫んだ。
あまりに大声だったので、思わず受話器から耳を離した。それでも電話口から出柄の声は聞こえてきた。
「高月先生に電話したんです。沢村さんにじゃないですよ。分かります?」
「電話対応は秘書とアルバイトで行うように言われていますから、ご用件をお伺いして、先生にお伝えしておきます」
「だーかーらー、沢村さんを挟むと面倒なことになるから、先生に直接話をさせてほしいの」
それなら高月の個人携帯にかければよい。事務所の電話にかけてくるあたり、高月は電話に出なかったのだろう。優先度が低いと後まわしにしているのかもしれない。事務所に電話させて、用件を沢村にとりついでもらおうというのが高月の意向だと思われた。
数分押し問答をしたものの、出柄は頑として用件を言わない。
仕方がないから、高月が事務所に戻る予定時刻を伝えて電話を切った。
出柄とはこれまで二度顔を合わせただけだ。一度は就職してすぐ、高月の地元A県を訪ねたときである。もう一度は出柄が東京に出張できたときだ。
第一公設秘書の出柄と第二公設秘書の山里は、ほとんど毎日、A県に張りついている。地元住民からの陳情を受けつけたり、選挙区内の冠婚葬祭に顔を出したり、選挙区と議員をつなぐ橋渡し役である。
初めて会った宴会の席で、出柄は言った。
「秘書の仕事は、先生を選挙に勝たせることだ。それ以外、どうでもいいんだよ」
あけすけなことを言われて、冷や水を浴びせられた気分だった。沢村は就職したばかりで、政策担当秘書の仕事に夢を見ていた。ロースクールで得た法的素養を政策づくりに活かしたいと、教科書通りの考えを純粋に信じていた時期だ。
政策担当秘書というのは、議員の政策立案や立法活動を補佐する役職だ。官僚主導から政治主導の政策づくりとなるよう、導入された。だが実際には、政策担当秘書を名乗りながらも、地元に張りつき、選挙に向けた活動ばかりしている者も多かった。
第二公設秘書の山里は勤務七年目の無口な男だ。A県出身で、淡々と与えられた仕事をこなすが、どことなく無気力な雰囲気がただよっている。出柄の指示に山里が素直に従うことで、定常業務が回っていた。
高月が戻ってきたのは、午後五時を過ぎてからだった。
机の上に貼られた受電メモを見つけて、小首をかしげた。が、何も言わずに受話器を手に取った。
「もしもし、高月です。うん、うん。え、また?」
話しているうちに、高月の声はどんどん低くなっていく。
「どうしてそれを、早く言わなかった? 留守電? 本会議中は確認できないよ。けど、沢村さんに伝えてもらえたら、メモを差し入れてくれただろうに。でも、もういい。はいはい、分かったから。ミニ座談会ね。うん、それでいきましょう。言い分は、金曜にそっちに戻ってから聞きますから」
大きなため息をついて、高月は電話を切った。その様子を盗み見ていた沢村は、意図せず、高月と目が合った。
「ちょっといい? 困ったことになったよ」
二人で連れ立って応接室に入る。高月は中央の椅子にどさっと座った。
「どうも地元でね、陳情をとめていたらしい」
「陳情をとめていた?」
「そう。地元の人から持ち込まれた話をああだこうだ言ってはつき返し、こっちにあげてなかったみたい。陳情のために上京しようとする人に『俺を通じて話をしてもらわないと困る』と言って、上京をとめたりしてね。それだけならまだしも、料亭の良い席を用意してもらったり、あとは女の子がいる飲み屋での飲み代を払ってもらったりとか、接待をしてくれた業者から順に陳情を受けつけていたんですって」
沢村は血の気が引いた。
「それって、受託収賄罪にあたるんじゃないですか?」
高月は渋い顔でうなずいた。
公設秘書は特別職国家公務員である。地元の陳情をとりまとめて議員につなぐのはその仕事の一つだ。接待などの利益供与と引き換えに、議員へのとりつぎを約束したら、秘書個人に受託収賄罪が成立する。
高月自身は何か約束したわけでも、利益を得たわけでもない。高月が収賄罪に問われることはなさそうだ。けれども、秘書が収賄をしていたとなると、そのボスである議員にも疑念が向けられるのは避けられない。
「先生は、知らなかったんですよね?」
沢村はおそるおそる訊いた。
高月は青い顔で言った。「実はこれまでに何度か、同じようなことがあったの。そのたびに厳重注意をしたのよ。まさかまた同じことを繰り返すとは」
政治家がよく言う「秘書がやりました。私は知りません」である。一有権者として弁解を聞いているときには「嘘に決まっている」と思っていた。だが、こうして実例を間近で見ると、なるほど政治家も超能力者ではないし、秘書の動きを完全に把握できるわけがないと分かる。
「私、秘書たちになめられているんだわ。特に出柄さんは昔から働いてもらっている。彼が選挙周りを全部仕切っているでしょ。自分がいないと私の選挙が回らないって分かっていて、足元を見ているんだ」
高月はいつになく弱気な調子で言った。
「だけど、今回ばかりは困ったなあ。陳情できなかった人たちが県連に苦情を入れたみたい。『高月事務所は接待しないと陳情を受けつけてくれない』って。県連会長がカンカンに怒っているんですって」
高月はあきらめと自虐がまじったような笑みを浮かべた。
県連会長という言葉を聞いて、嫌な予感がした。
先日、県連会長からは朝沼の死について謝罪するよう要求されたばかりだ。地元の有権者の間で不満の声が大きくなっているから、とりあえず謝罪してほしいとのことだった。
そして今回のこの件である。
朝沼の死をきっかけに高月への不満が高まった結果、これまで我慢していた接待について、県連に通報する者も現れたのだろう。
不思議なもので、ある政治家が好調なときは誰もが良い顔をするのに、一度不調に陥ると、途端に人が離れていって、不祥事が連鎖的に明るみに出る。
「あんまり不祥事が続くと、さすがにヤバいよ。いくら地元の後援会がしっかりしているとはいえ、公認を決めるのは県連なんだから」
「公認権は党の執行部が握ってるんじゃないんですか?」
「建前はそうだよ。だけど執行部も、県連の意向を無視できないんだよ。県連はたいてい、地方議員を中心に構成されている。ほとんどが中年男性。いわば、地元の偉いおじさん、おじいさん衆よ。あの人たちはね、政治は男がするものだと思ってるんだ。日本のジェンダーギャップ指数は先進国最低レベル。女性政治家が圧倒的に少ないのよ。どうしてだか分かる?」
「政治家になりたい女性が少ないから、ですか?」
違う違う、と高月は大きく手をふった。
「勉強会や後援会を見てごらんなさい。政治家になりたい女性はたくさんいる。十分すぎるほどいる。だけど、実際に選挙に出る女性候補者は少ない。なんででしょう?」
応接室に沈黙が流れた。
「なんでですか?」
「女性は党の公認をとりづらいからよ」
高月はため息をついた。
「地元に世襲議員がいれば、まず敵わない。世襲議員と、県連の地方議員衆は、親族同様の付き合いを何十年としているんだから。世襲議員がいない地域でも、地元出身の官僚経験者とか、医者、弁護士みたいな有資格者がいれば、そういう人が強い。官僚も医者も弁護士も、圧倒的に男が多いでしょ。そこでスクリーニングされると、女性は不利だよ」
「でもそれは、政治家になるために必要なスキルを持った女性が少ないってことじゃないんですか」
「なに馬鹿なこと言ってるの」高月は鼻で笑った。「立派な経歴を持ったおじさん連中が、どんな政治成果を残したっていうの。どういう経歴の人が政治家に向いているか、実証研究があるわけでもなし。単純にイメージの問題よ。健康な成人男性が選挙に勝って政治をする。そういう先例をたくさん見ているから、それ以外のパターンを想像できないだけ。保守的な県連の中では、特にその幻想が根強い」
なるほど確かに、そうなのかもしれないと思った。
どういう人に政治家の資質があるのか。問われても、即答できない。人によって答えが異なるだろう。だからこその民主主義だ。選挙で、各々の考えに基づいて、人を選ぶ。
だが候補者として提示される時点で、偏った人選がなされていたら。有権者は限られた選択肢から、同じような人ばかり選ぶことになる。
「こんな状況だからさ。県連を説得して、女性が公認を勝ちとるためには、党本部からの強いプッシュが必要なの。だけど党には通常、女性候補者を増やすインセンティブがない。女性はあくまでピンチヒッターなの。困ったときだけ、目新しい印象を与えたいときだけ、女性を入れればいい。残酷だけど、彼らの率直な感覚はそんなものよ」
野党であれば、与党にはない新鮮さを印象づけるために女性候補者擁立をもくろむことがある。与党であれば、野党に惨敗したあとの選挙のときに、イメージ刷新目的で大量の女性候補者を擁立することがある。いずれにしても、ピンチヒッターにすぎない。
「私たち女性は、味変調味料ってことですか」
沢村が言うと、高月はきょとんとした顔をした。
「味変調味料?」
「のり塩とか、ラー油とか、七味唐辛子とか。定番の味にちょっと加えて、目新しい印象をもたらすだけの存在。丼ぶりの具は何も変わらないのに」
「丼ぶりって」高月は吹き出した。「ちょっともう、やめてよ。沢村さん、真顔で変なこと言うんだから」
ひとしきり笑ったあと、高月は状況を説明してくれた。
高月の地元A県は、伝統的には与党が強い。一般的な男性候補者をあてたところで当選の見込みは薄いため、いわば捨て駒として高月は擁立されたらしい。
しかし高月は思いのほか、初めての選挙で善戦した。結果は惜敗したものの、現職に迫る第二位の得票数を得た。
その結果を見た党本部は、次の選挙から本腰を入れ始めた。党本部からの要請を受けて、県連もしぶしぶながら選挙協力するようになったそうだ。
それからは地道なことの積み重ねだったという。頭をさげ、ポスターを貼り、街頭演説をして、支援者を増やしていった。後援会も毎年少しずつ大きくなっている。お辞儀と足で築いた地盤である。
「県連会長にはちょうどいい年頃の息子がいるのよ。三十七歳、県議会議員で二期目の任期中。
県議になる前はI Tコンサルをしていて、見た目もシュッとしている。県連会長は息子の国政出馬を見越して、私の公認を外せと騒ぐかもしれない。私をおろすのにこんな良い機会、そうそうないからね。とりあえず今から県連会長と話してみるけど。沢村さん、今週末、空いてる?」
唐突に訊かれて驚いた。「空いていますけど」
普段から業務で忙しく、ほとんど毎週末、休日出勤している。改めて週末の予定を訊かれる
のは珍しかった。
「金曜の夜から、一緒に地元に行ってくれない? 人手が全然足りないから、手伝ってほしいの。週末に急きょ、有権者との座談会を開くことにしたんだ。状況を地元有権者に説明する必要があるから」
「分かりました」沢村は即答した。
高月の進退を案じる反面、少しわくわくしている自分がいた。
秘書になってから一年とちょっと、解散総選挙の見込みもない安定した政局だった。選挙活動を手伝ったこともないし、地方議員や有権者と密に接触したこともない。ついに前線に行けるという高揚感があった。
「なにニヤニヤしてんの」
高月が頬をゆるめて、沢村の顔を指さした。
「私、ニヤニヤしてましたか。すみません」
「沢村さんも意外と喧嘩好きなのかもね。こうなったら私も燃えてきた。おじさんたちに負けてられないからね」欠伸をしながら呑気に続けた。「まあ、なるようになるでしょ」
高月は勢いよく立ちあがると、執務室に戻っていった。
今となっては、出柄が電話で沢村に用件を伝えなかったのもうなずける。自分の失態を新参者である沢村の耳に入れたくなかったのだ。高月を通じてどうせ伝わるとしても、自分の口から話して聞かせるのには抵抗があったのだろう。度量の狭い男だと内心毒づく。
ふと、金堂から得た情報を高月に伝え忘れたことに気づいた。
山縣という議員が顕造に接触した結果、顕造が翻意し、法案が潰された。だが山縣が顕造に何を語ったのかは分からない。朝沼の死亡との関係も不明だ。
高月に相談し、指示を仰ぎたい気持ちもあった。
だが、先ほどの高月の顔を思い出すと、何も言えなくなった。明るく話しているが、目の下にはクマが目立ち、口元にはくっきりとほうれい線が刻まれていた。これ以上、高月の心労を増やしたくない。
他の秘書から話を聞くように指示を受けている。もう少し調べを進めてから報告すればいい。
願わくは、いい情報を得て、お土産片手に意気揚々と報告したい。
「喧嘩好き、なのかな」独り言をもらした。
いや違う、と胸のうちで続ける。決して好戦的な性格ではないし、口数が少ないせいで口喧嘩にもならない。ぼんやりしているぶん、怖いもの知らずなだけかもしれない。
窓の外から、カラスの鳴く声が聞こえた。もうすぐ夜だった。
山縣の秘書、井阪と連絡がとれたのは、その週の木曜日だった。井阪は翌日、金曜の十一時から三十分間なら会えるという。
密会場所に思いをめぐらせて、沢村は「天梅酒店で」と言った。
酒店からすると営業妨害かもしれないが、店主の菱田は来客がないのを何より嫌う。どんな用件でも顔を出せば、悪い気はしないだろう。それに、話さないでくれと頼みさえすれば、菱田の口の堅さは永田町イチである。
やや緊張した心もちで金曜日を迎えた。
十一時十分前、議員会館から出て空を見あげた。
雲一つない青空だ。冬のツンとした晴天とは違う。暖かな日差しがやんわりと降りそそいでいた。すべての生き物を春が祝福しているようだった。
車に乗るのももったいない気候だが、タクシーに乗り込んで天梅酒店に向かった。
約束の時間の五分前にきたのに、店の中にはすでに井阪らしい影が見えた。場所を貸してほしいと菱田には事前に伝えてあったから、店の前には準備中の札がさがっている。
「こんにちは」
声を張って挨拶しながら店内に入った。挨拶だけはしっかりするように、高月から口酸っぱく言われていた。
「おっ、サワちゃん」
菱田が顔をほころばせ、片手をあげた。レジ横にガラナが二本出ている。
沢村は一礼して、「場所を貸していただいて、ありがとうございます」と言った。
「いいの、いいの」
菱田は言いながら、レジの前に立つ中年男性に視線を投げた。
長身で、骸骨のように痩せた男だ。年齢はよく分からないが、四十代か、五十代に見えた。
男は白い細面をぬっと、沢村に向けた。
「どうも、井阪です」
男は軽くお辞儀をした。沢村もつられて頭をさげる。
「沢村です。本日はご足労いただきありが――」
「そういうのはいいから。用件だけ言ってくれないか」井阪が口を挟んだ。
菱田は目を丸くしたが、すぐにバックヤードに引っ込んだ。これからの会話は「見ざる、聞かざる、言わざる」というわけだ。
沢村は深呼吸をすると、レジ横の椅子に腰かけた。
「どうぞ、お座りください」
あえて鷹揚な口調で言った。
菱田が用意してくれたガラナの栓を抜き、口をつける。
「井阪さんもガラナ、いかがですか。美味しいですよ」
井阪は直立不動の姿勢のまま、うっすらと眉をひそめた。ガラナには指一本触れなかった。
沢村のペースにはのるまい、ということらしい。
それならばと沢村も、単刀直入に尋ねた。
「性同一性障害特例法の改正案、おたくの山縣先生が反対したことで、三好派の動きが変わったんでしょう?」
あたかもすべてを知っているかのように言った。半ばハッタリだった。山縣がどう動いたのか、詳細は知らない。
「はあ?」井阪は首をかしげた。
何を言われているのか分からないという顔である。演技だとしたらうますぎる。
「一体何のことでしょう」
ぼんやりした顔のまま、井阪は椅子に腰かけた。
「それにね、お土産もなしに質問されたところで、私がハイハイと答えると思いましたか」
井阪はせせら笑った。
「お嬢さん。一つ良いことを教えてあげよう。政治の世界はギブアンドテイク。貸しと借りでできている。私に何か訊きたいなら、まずは貸しをつくることだね。そうではなしに、私があなたを助けたら、その借りはあとから大きくなって、足をすくいますよ」
頬がカッと熱くなるのを感じた。
完全になめられている。だが言い返す言葉が見つからなかった。
秘書は概して噂好きである。普段からあれこれと情報交換をしているから、ちょっと訊けば教えてくれるだろうと思っていた。だがそれは、政局上の対立がないときだけだ。
自分の見立てが甘かったことに気づき、恥ずかしい気持ちが込みあげてきた。
このやりとりをバックヤードで菱田も聞いているだろうか。井阪に見下されることよりも、菱田に「サワちゃん、まだまだ甘いな」と思われるのが嫌だった。
だがそんなことに構っていられない。
恥をかいたぶん、収穫もあった。鉱物採掘で堅いものにカツンと行きあたったような感覚だ。
井阪の硬い対応から、この話には政局上重要な何かが隠されていると直感した。
「逆に訊くが」井阪が口を開いた。「君がこうして私を呼び出し、法案について訊いてくるのはどうしてだ?」
井阪の目に意地悪な光が宿っている。
秘書を通じて探りを入れてくるくらい、法案に高月がこだわっていると受けとったのかもしれない。
「その質問に答えたら、こちらの質問にも答えてもらえるんですか?」
「君の答え次第だ」
「じゃあ、お話しできません」
しばらく沈黙が続いた。
「あの女、憤慨おばさんの差し金か?」
「憤慨おばさんって誰ですか」あえてすっとぼけた返しをした。高月を愚弄する言葉に、じりじりと腹が立った。
「高月馨先生ですよ。私に憤慨していましたか」
質問の意味が分からなかった。
高月と井阪について話したことはない。高月が井阪に憤慨する? 山縣と一緒になって、法案を潰したから憤慨しているのでは、という意味か。それならば、井阪たちが法案潰しに一枚かんだと認めているに等しい。
「高月先生はそんなに暇じゃないですよ」沢村は冷ややかに返した。「高月先生のことが気になりますか」
井阪は出かたをうかがうように沢村の顔をじっと見て、「ふうん」と言った。
その反応に、何かある、と思った。井阪は井阪で、何か探っている。沢村から情報をとろうとしている。政治の世界はギブアンドテイクだと、本人も口にしたばかりだ。沢村と面会している時点で、井阪にも思惑があるはずだ。
井阪がすっくと立ちあがり、「私たちはこれ以上、話すことがないようだ」と言って、店を出ていった。
沢村はふうと息をはくと、ガラナの残りを喉に流し込んだ。炭酸が抜けて、嫌な甘さばかりが残っていた。
その足で衆議院第二議員会館、通称「衆の第二」に向かった。
衆の第二の地下一階には、売店や靴屋、クリーニング屋が並んでいる。
高月事務所が入っているのは、衆議院第一議員会館、「衆の第一」である。沢村は毎日のように、地下通路を通って、衆の第二に足を踏み入れていた。この日はクリーニング屋で高月のワイシャツを引き取る必要があった。
永田町周辺には様々な施設がそろっている。
参議院議員会館の地下二階には、理美容室、歯科医院だけでなく、整体院がある。国会議事堂一階には、医務室とは別に内科や皮膚科が入っている。こういった施設が必要になるくらい、特に会期中は議員も秘書も永田町に出ずっぱりである。
ワイシャツを引き取って、足早にエレベーターホールを通りすぎようとすると、横から声がかかった。
「サワちゃん、そんな怖い顔して、どうしたの」
振り向くと、売店「おまめ堂」の店主、豆田がカウンターから身を乗り出していた。
「おまめ堂」では国会名物の饅頭を始めとする国会グッズを売っている。観光客に人気の店だ。
秘書たちもたまに立ちよって贈答品を購入することがある。店主の豆田とは自然と顔なじみになった。
「もう金曜日、あと一息だよ」
豆田が優しく言った。
頭はつるりと禿はげあがり、目尻には深いしわが刻まれている。ここで政治家を見続けて五十年超、永田町の生き字引である。
その顔を見て、毒気が抜かれた。
井阪とやりあってささくれていた神経が落ち着いてきた。
「ありがとうございます。ちょっと疲れていたみたいです」
沢村はこめかみをかきながら微笑んだ。つくり笑いだったが、すっと心が軽くなる。
「いい顔になりなさいよ」
豆田がしんみりと言った。彼の口癖だった。
「政治家も秘書も、顔に出るよ。いい顔になりなさい」
「はい」沢村はうなずいた。
豆田に一礼して歩き出す。古びた廊下に足音が響いていた。ヒールのかかとのゴムがすりきれて、金属部分が露出しているらしい。靴屋はすぐそこにあるが、自分の靴を修理する余裕はなかった。
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