小林賢太郎さんの最新書籍『表現を仕事にするということ』より、試し読みをお届けします。
「才能」と「努力」と「運」
「才能があるね」って言われたら「褒められた! 嬉しい!」って思うのと同時に「しめしめ、バレてない」とも思うんです。
僕は創作活動に関して「やってみたら、なんとなくできちゃった」なんてことは、ひとつもありません。そういう意味では、僕に才能なんかありません。
ただ、物心ついたときから表現をし続けてきたので、「才能」という単語が身近なものではありました。
例えば小学生の頃、周りの大人から「才能がある」って言われると「この人には才能があるかないかを見抜く才能が本当にあるのかな?」って思ってました。「才能と向き合う人生を送ろうとしている子供に対して、才能という言葉を無責任に使っていませんか?」って思ってたし「この大人は僕のことを、才能っていう言葉を使って言い表すのが楽だから、こう言ってるだけなんだろうな」くらいに思ってました。
そして、実際に才能と向きあわざるをえない仕事についた今思うのは、才能って、もっと現実的なものだ、ということです。
なんだか「才能」という言葉に幻想を持っている人が多いように思います。
例えば、フィジカルなことに置き換えて考えてみてください。
目がいい人には、目が悪い人より、精密作業の才能がある。
体が小さい人には、体が大きい人より、狭いところに入る才能がある。
左利きの人には、右利きの人より、左手を使う才能がある。
そりゃそうだ、って話ですよね。
これが「表現力の才能」になったとき、視力や身長のように数字で測れないから、幻想が生まれるんだと思います。
天から授かった超能力で、スプーンを曲げられる人がいるとします。超能力ですから、トリックがありません。ということは、今日は体調が悪い、とか、環境のせいで集中できない、とかの理由で、スプーンが曲がらないことだってあるわけです。
一方、トリックを使っているニセ超能力者がいたとします。本当は超能力はないのだけれど、スプーンを曲げられます。タネも仕掛けもあるから、体調や環境に影響されることはありません。ただし、これをまるで超能力かのように観せるには、かなりの練習が必要です。
才能と努力を、超能力と手品に例えてみました。ギフトとして与えられた才能って、本当に素晴らしいと思います。誰もが持っているものではないし、その特別な才能に、みんなが興味を持つことでしょう。ならば、才能のない人が努力することは無駄かというと、それはまったく違います。努力には、確実性があります。僕たちは、お金をとってエンターテインメントを観せる以上、確実に観客を楽しませなければなりません。頼るべきは、才能ではなくて、努力なのです。 そして、努力によって才能かのような結果を出せたとき、周りは「才能あるね」って言い出すんです。だから「しめしめ、バレてない」なんです。
そして「努力」という言葉もまた、意味が一人歩きしている気がします。努力って「やりたくないことを我慢してがんばること」だと思っている人が多いのではないでしょうか。
僕は、自分の表現をよくするために、努力なんかでなんとかなることなら、いくらでも努力します。やりたいことのための努力ですから、やりたくないことを我慢してやっているわけではありません。
「才能」「努力」、どちらの言葉にも、幻想があるのかもしれませんね。ここに「運」も絡んでくると、いよいよファンタジーな世界になってしまいそうです。
「どんな結果が出せるか」には、運も関係あると思います。出会いとか、世の中の流れとかも、運だと思いますので。
でも表現を「するかしないか」に関しては、運は関係ありません。どんな運の巡り合わせであっても、与えられた人生の中で、できる表現をしていくだけです。天気って運なのかもしれないけれど、雨が降ろうがヤリが降ろうが、僕は表現をやめませんから。……すいません。ヤリが降ったらやめます。多分それどころじゃないので。
* * *
表現を仕事にするということ
やるやつは、
やるなと言われてもやるんです。
表現を仕事にする上で大切にしたいこと。
起こりうる様々な困難の乗り越え方。
表現の表裏にあることについての39篇。
どんな思っても見ない出来事も、
それを経験したからこそ、
たどり着ける表現があるはず。