あれは私が五歳くらいの時だったと思うのですが、隣の家のおばさんがかわいい服を持ってきて、私にくれると言うんです。おばさんはとても感じのいい、優しい人で、ふつうに考えたら、姉のおさがりばかり着ていた私にとっては、きっと飛び上がるくらい嬉しかったはずなんです。それなのに、いざ「着てみて」と言われて「はーい」と手にとったら、どういうわけかどうしても着る気になれなかったんです。
そういう言葉にならない感覚がわかってくれそうな父は留守にしていて、母親は「なんで? 着るくらいいいじゃないの」と怒り出すし、おばさんにも申し訳ない状況だけれど、なぜか絶対に着たくなかったので「やだやだ、絶対にやだ!」って、のたうちまわって泣いて拒絶したのを憶えています。
あれは、決してわがままではなかった。子どもだったから気まぐれにかんしゃくを起こしたというわけでもない。
まだ幼い子どもだったからそこまで素直に振る舞うことができたけれど、もうちょっとだけ大きかったら、気をつかって嫌々でも笑顔で着たかもしれません。それはそれで問題です。どうしてそんなに嫌だったのか、いまだに理由はわからないのですが、ああいうのってその場の誰も知らないだけで絶対に何か理由があるんじゃないかって思うんです。あれほどまでに嫌だと思ったからには、自分の体の中にあるセンサーの最も敏感なところが何らかの反応をしたんじゃないかって。
そういうセンサーって、人間、誰もが本来持っているもので、それこそ子どもの頃は、みんな、もっと毎瞬反応していたと思うんです。生き物としての生存本能みたいなもの。危険を察知して回避する力。虫の知らせで電車を一本遅らせたら事故に遇わずに済んだとか、何となく気持ちが乗らなくて車で出かけるのをやめたら通るはずの道で大事故があったとか、体のセンサーがキャッチしたささいな違和感をスルーしないことで助かることが、実はいろいろある気がします。
ところが、社会生活を営むにつれて、そういう、人間が本来持っているはずの感覚が不要なものとしてどんどん麻痺させられていく。学校や会社、社会生活に順応するために、自分の感覚を無視してでも、周りの状況に合わせるようになっていく。
その時に、「これは今の状況ではとりあえず無視させられているけれど、本来の自分の感覚ではない」ということをちゃんと意識できていればいいけれど、そうじゃないと本来持っていたはずの感覚がいつのまにか麻痺していって、しまいには反応しなくなる。それって、生き物としてはかなりまずい状態ですよね。
そうなると、自分では「あの人、なんかうさんくさい」と感じていたのに「いや、でも、親が、友だちがみんなが立派ないい人だって言ってるから、近づくべき人なんだろう」と打ち消してしまうなど、判断を人任せにするようになる。しかしそこは実はいちばん人任せにしたらいけないところで、自分の体の感覚をどこまで信頼できるかっていうのが、その人が本来持っている生きる力に直結しているんだと思うんです。
自分自身の感覚と周りが感じていることが違うっていうのは、よくあることですよね。自分は本当は嫌だと思っているけれど、周りに合わせなければならない。
幼い子どもなら、あの時の私のように泣いてのたうちまわればいいけれど、大人はなかなかそうはいかないですから。だからこそ、しかたないなと周りに合わせながらも「自分は本当はこう思っている」ということを自分だけは自分のためにちゃんとわかってあげているということが、ものすごく大事なんだと思うんです。
私はある程度の年齢になってからは、その割り切りをかなり意識的にやるようにしていました。周りに合わせてはいるけれど、自分は本当はこう思っている。状況はこうだけど、自分はこう。そういう割り切りをすごくした。
周りに合わせながらも、自分の感覚を決して手放さないこと。合わせるのは保身のためではなくあくまで人を傷つけないため、あるいは愛のため。そうして、自分で感じる力を鍛えながら、自分と周りが乖離(かい り)している状況を少しずつ減らしていく。
自分で感じる力が鈍くなっていたら、何が幸せかもわからないから。
そのセンサーが教えてくれるんだと思うんです、自分にとって何が幸せで、何がそうじゃないのかを。
子どもの頃のあの体験は、決してわがままとは違う。自分のセンサーが反応するって、つまりああいうことなんだろうなと、私にとってひとつの物差しとして今でも体の中に残っています。ただ、今なら隣のおばさんを傷つけないために、もう少し違う方法で断れたかもしれないな、と思います。
幸せへのセンサーの記事をもっと読む
幸せへのセンサー
幸せって、何でしょう? 作家の吉本ばななさんが、60年でたどり着いた「現実の中で幸せになる方法」を考えてみました。刊行を記念し四回連続・試し読みをお届けします。