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パーティーが終わって、中年が始まる

2024.06.21 公開 ポスト

部屋に泊めても“邪魔にならない若者”の「薄い存在感」と“うっとおしい中年”の「不要な存在感」pha

かつて「日本一有名なニート」と呼ばれ、定職につかず、家族を持たず、気ままに生きることを最上の価値としてきたphaさんが、年を重ねるなかで感じた自身の変化。最新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』から、若さの魔法がとけた人生と向き合う日々を抜粋してお届けします。

中年がヨレヨレの服を着ると警戒される

こないだ十九歳の若者と話していたら、地方から上京してきたけど決まった家がなくて友達の家を泊まり歩いてる、と言っていて、その話を聞いてとても懐かしい気持ちになった。

自分もそんな生活をしていた頃があった。二十八歳で会社を辞めて無職になったとき、大きなザックひとつだけを背負って、いろんな友達の家やシェアハウスを転々と泊まり歩いていた。その後、自分でシェアハウスをやっていた頃は、あちこちからやってきたいろんな人を無秩序に泊めたりもしていた。

ああいうのはやはり、泊めるほうも泊まるほうも若かったからできていたのだな、と思う。若者はリビングの片隅に適当に泊めておいても邪魔じゃない。ひとつの部屋でみんなで雑魚寝(ざこね)したりもよくしていたし(雑魚寝という言葉だけでもはや懐かしい)、布団なんかなくても平気で床で寝ていた。

四十代になった今では、全くそういうことをしたいと思わなくなってしまった。今は、友達の家に泊まっても友達を自分の家に泊めても、相手のことをうっとうしく感じてしまいそうで怖い。

あちこちを泊まり歩いている若者の話を聞いて一瞬うらやましく思ったけれど、実際にそういうことをしたいわけではなく、適当に人の家で夜を明かしたりしたいと自分が全く思わなくなっていることを確認して、あの頃から遠くに来てしまったな、という感慨を持っただけなのだった。

中年になって、他人と一緒に過ごすことの許容度が下がったのはなぜだろうか。なんだか中年になると、自分も他人も、存在しているだけでうっとうしさが発生してしまっている気がする。それは容姿が老けてきたからなのか、それとも物音や人の気配が苦手になったからなのか。

年をとってから身だしなみに少し気をつかうようになったのはそのせいだ。少しでもうっとうしさを軽減したい。

若い頃はむしろ好きこのんでむさ苦しい格好をしていた。ボサボサの髪でヨレヨレのシャツを着て、世の中のメインストリームから外れた感じでいるのが居心地がよかった。社会に参加したくなかった。まともな人たちから、どうでもいい取るに足りない存在だと見られていたかった。

そんな自分が、四十歳を超えてからは、少しちゃんとした服を着るようになった。といってもそんなに大したことはしていなくて、あまりにもくたびれた服は捨てて、ユニクロやGUや無印良品でシンプルな服を買うようになったとか、一か月半に一度は髪を切るようになった(それまでは三、四か月経って髪が伸びすぎて洗うのが面倒になるまで放置していた)とか、それくらいのことに過ぎないのだけど。

別に、お洒落になりたい、と思ったわけではない。中年男性があまりにもほったらかしの見た目をしていると、不審者だと思われて警戒されそうだからだ。

若い男子がボサボサの髪の毛でヨレヨレの服を着ていても、まあこの子は見た目に頓着していないんだな、と思われるだけだろう。

中年以降の男性がだらしない格好をしていると、なぜ危険な雰囲気になってしまうのだろうか。周囲を怯(おび)えさせないためには、ある程度のこざっぱりさを身につける必要があるらしい。 面倒だけど。

中年になると、ちゃんとした格好をしないと人を警戒させてしまうのは、年をとると存在感というものが否応いやおうなく増してしまうからではないだろうか。

若い人間は存在感が薄い。そのせいで軽く扱われたり、無視されたりしてしまいがちでもあるけれど、どんな場所にでもスッと溶け込みやすいというメリットもある。多少変な若い人間がいても、まあ若者だからしかたない、という理由でなんとなくスルーされる。

しかし年をとるにつれて、その人がどういうタイプの人間かということにかかわらず、自然に存在感というものが増してきてしまう。

年上の人間が場にいると、軽く扱いにくい。無視しづらい。いるだけで威圧感を放ってしまう。

権力というもののもっとも些細(ささい)な始まりは、その人がいるとなんとなく無視しづらいという雰囲気だ。年功序列というシステムが根強いのは、年上の人を軽く扱いにくいという人間の自然な感覚を基盤にしているからだ。

権力を持つのが好きな人にとっては、年をとって存在感が増すのは悪くないことなのかもしれない。 だけど自分はずっと、権力を持つことに全く興味がなかった。むしろ、みんなから軽く扱われていたい、と思っていた。そのほうが誰にも期待も邪魔もされず、自分の好きなように動けてラクだからだ。

存在感が薄くてどこに行っても透明でいられる若者は気楽だけど、若いときは若いときで、その存在感の薄さに悩んでしまいがちでもある。

若者が尖ったファッションをしたり、マニアックな趣味にかぶれたりするのは、気力や体力などのエネルギーが過剰だからというのもあるだろうけれど、存在感が薄くて軽く見られがちなので、もっと注目されたい、と思うせいもあるんじゃないだろうか。

年をとるにつれて、極端な行動や格好で世間の注目を集めようとする人間が減るのは、そんなことをして存在感の薄さを補わなくても、加齢によって自然と存在感が増してしまうからなのかもしれない。

人に軽く見られているほうがラクだから、権力や存在感なんていらない。会社や組織に属さず、ひとりでふらふら生きていたい。そう思って今までやってきた。

しかし、そんな自分でも、最近は若者と話すたびに、目上の人として気を遣われていることを感じる。自分が否応なく存在感や権力を持ってしまっていることを自覚せざるを得ない。

こんなつもりじゃなかったのにな。年をとっても内面は大して若いときと変わっていないから、据わりの悪さを感じる。ずっとどうでもいいふらふらとした存在でいたかった。

だけど、それは受け入れるしかないのだろう。内面とは関係なく、容姿や立場が行動を自然と変化させていくのだ。

物事には何にでも順番がある。一般的な社会のルールとあまり関わらないように生きてきたつもりの僕でも、順番には逆らえないようだ。

何も背負わずふらふらと危うげに生きていくのはもっと若い人たちに任せようと思う。がんばって僕の分までふらふらと生きてくれ。

関連書籍

pha『パーティーが終わって、中年が始まる』

定職に就かず、家族を持たず、 不完全なまま逃げ切りたい―― 元「日本一有名なニート」がまさかの中年クライシス!? 赤裸々に綴る衰退のスケッチ 「全てのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。 何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。 この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。 喪失感さえ、娯楽のひとつとしか思っていなかった。」――本文より 若さの魔法がとけて、一回きりの人生の本番と向き合う日々を綴る。

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』

家にいるのが嫌になったら、突発的に旅に出 る。カプセルホテル、サウナ、ネットカフ ェ、泊まる場所はどこでもいい。時間のかか る高速バスと鈍行列車が好きだ。名物は食べ ない。景色も見ない。でも、場所が変われば、 考え方が変わる。気持ちが変わる。大事なの は、日常から距離をとること。生き方をラク にする、ふらふらと移動することのススメ。

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パーティーが終わって、中年が始まる

元「日本一有名なニート」phaさんによるエッセイ『パーティーが終わって、中年が始まる』について

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pha

1978年生まれ。大阪府出身。京都大学卒業後、就職したものの働きたくなくて社内ニートになる。2007年に退職して上京。定職につかず「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。2019年にシェアハウスを解散して、一人暮らしに。著書は『持たない幸福論』『がんばらない練習』『どこでもいいからどこかへ行きたい』(いずれも幻冬舎)、『しないことリスト』(大和書房)、『人生の土台となる読書 』(ダイヤモンド社)など多数。現在は、文筆活動を行いながら、東京・高円寺の書店、蟹ブックスでスタッフとして勤務している。Xアカウント:@pha

 

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