大人の女には、道をはずれる自由も、堕落する自由もある――。7月3日に発売された『小泉今日子と岡崎京子』は、社会学者の米澤泉さんが読み解く、ふたりのキョウコ。アイドル・小泉今日子の新しさとは何だったのか? 一部を抜粋してお届けします。
ものを言うアイドル──カリアゲとキョンキョン
小泉今日子は松田聖子、中森明菜とともに1980年代を代表するアイドルだった。正統派アイドルを演じ続け、揺るぎない座を獲得した「ぶりっ子」聖子。それに対抗し、アンニュイな不良少女路線を極めた明菜。
その対抗軸を無効化するかのように現われた「なんてったってアイドル」小泉今日子は、カリアゲショートに最新のファッションを身に纏まとい、アイドルのイメージを一新した。
タイプの違いはあれ、それまでのアイドルは、男性にとっての「理想の彼女」でなければならなかった。だからぶりっ子と言われようがツッパリと言われようが、「かわいらしさ」「女らしさ」「儚さ」を醸し出し、男性に「守ってあげたい」と思わせる存在であろうとした。
しかし、「キョンキョン」の愛称で親しまれた小泉今日子は、違った。ファッション、言動、パフォーマンス、そのすべてにおいて、従来のアイドルの規範にとらわれず、コイズミ流を貫き通したことで、結果的に男性よりも女性に支持されるアイドルとなったのだ。年齢を重ね、俳優へと活躍の場を広げた後も、自分の言葉を大切にし、自由に生きる姿が女性たちの心を摑み、しだいにロールモデル的なポジションを獲得するようになる。
50代後半となった現在も、加齢に対する新しい価値観を提唱する「エイジンググレイスフリー」プロジェクトのアンバサダーに就任するなど、その生き方が注目されている。
小泉今日子の何が女性たちを惹きつけるのか。小泉今日子という存在が女性たちの生き方にどのような影響を与えてきたのか。デビュー以来の軌跡をたどることから始めよう。
小泉今日子は、「花の82年組」の一人である。中森明菜を筆頭に、早見優、石川秀美、松本伊代、堀ちえみと人気アイドルを多数輩出した1982年にデビューした。とはいえ、小泉今日子は当初からその中で際立っていたわけではない。抜群の歌唱力とアンニュイな雰囲気で抜きん出ていた中森明菜をはじめ、バイリンガルな帰国子女の早見優、健康的な「秀樹の妹」石川秀美、「田原俊彦の妹」松本伊代と、同期には実力や話題性を兼ね備えたライバルがひしめいていた。
デビュー当時の小泉今日子は可もなく不可もない、これといって特徴のない「正統派アイドル」という位置づけだった。
確かにデビュー曲の「私の16才」は、森まどかというアイドルが1979年にリリースした「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー曲であったし、髪型も、当時のアイドルが雛形としていた「聖子ちゃんカット」を踏襲していた。つまり、「微び笑少しよう女じよ。君の笑顔が好きだ」というデビュー時のキャッチフレーズ通りに、笑顔がかわいい「理想の彼女」としてお約束のアイドルを演じることが求められていたのだ。
16歳の小泉今日子は、いきなりそれに反発することもなく、しばらくは様子を見るかのように「正統派アイドル」の枠内に留まっていた。「素敵なラブリーボーイ」「ひとり街角」「春風の誘惑」と立て続けに新曲をリリースし、ほどほどの人気を得ながらも、今ひとつ自分らしさを表現できずにいたようだ。
そんな小泉今日子が劇的に変化したのは、髪をショートカットにした5枚目のシングル「まっ赤な女の子」以降である。デビューして1年。この辺りでイメージチェンジし、勝負をかけるべきと事務所も判断したのだろうが、何よりも本人の意志がそれを後押しした。
小泉 事務所には一応、「今から髪を切ってきます」とは言ったんですけどね。「どのくらい?」「わりと短く」って言っておいて、帰ってきたら皆がびっくり(笑)。「えー、だって切るって言ってたじゃん!」と、確信犯的に。(『小泉放談』254)
いきなりのカリアゲショート。それは、当時「最先端」とされたおしゃれなヘアスタイルだった。80年代前半にブームとなった個性的なDC(デザイナーズ&キャラクターズの略)ブランドの服にもぴったりのジェンダーレスな髪型は、もちろんそれまでのアイドルにはあり得ないアヴァンギャルドなものだった。イメージチェンジと言っても選択肢はいろいろあったはずだが、敢えてカリアゲショートを選んだ理由を小泉自身は次のように述べている。
小泉 当時憧れていたモデルさんたちもアーティストも、皆ショートカットでかわいいのに、「アイドル界、遅れてる!」って気持ちに、すごくなっていて。まぁ、自分でも勝手に固定観念に縛られて、「こういう髪型でないとダメなんだろうな」と思っていたんですが、1年くらいやってみて「いや、そうじゃないんじゃないか?」と。(『小泉放談』254)
小泉が言うように、当時のアイドル界は非常に「遅れて」いた。髪型だけでなく、アイドルの衣装と最新のファッションの間には深淵が横たわっていたのである。現在のように、アイドルがファッション誌の表紙モデルになることなど考えられない時代だった。アイドルが表紙を飾るのは『明星』か『平凡』などの芸能雑誌、せいぜい週刊誌と言ったところだろうか。
しかし、小泉今日子は、髪を切ったことでその溝を一気に跳び越えた。遅れているアイドルから進んでいるアイドルへ。カリアゲショートが、彼女をスターダムにのし上げたのだ。当時、ティーンの間で絶大な人気を誇っていたマガジンハウスのファッション誌『Olive(オリーブ)』でも小泉今日子は「おしゃれアイドル」として活躍するようになった(第3章参照)。
80年代半ばの『オリーブ』はパリの高校生「リセエンヌ」のスタイルをコンセプトにしつつも、アツキオオニシやビバユー、パーソンズといったDCブランドを紹介するファッション誌であったが、メイン読者である女子中高生のために、年に2回はアイドルを大々的に特集していた。
と言ってもおしゃれな『オリーブ』が取り上げるのだから、ただのアイドル特集ではない。アイドルに最新のDCブランドを着せて、オリーブっぽく仕立てるという趣向である。しかし、もともと「遅れて」いた当時のアイドルたちは、なかなかオリーブのモデルのように最新ファッションを着こなすことができず、登場する人気アイドルたちは服を着せられている感が拭えなかった。そんな中で唯一、DCブランドを難なく着こなしていたのが、ショートカットの小泉今日子だったのである。
80年代から90年代にかけて『オリーブ』や『an・an(アンアン)』の編集長を務めていた淀川美代子は、普通のアイドルとは異なる独特の雰囲気を持つ小泉今日子を積極的に起用していたと述べている。
淀川(前略)小泉さんには『オリーブ』の頃から、作っている雑誌によく出ていただいて。私が『オリーブ』から『アンアン』に移った1号めでも、確か髪を切っていただきました。(『小泉放談』253)
小泉自身も、「『オリーブ』に声をかけていただいた頃って、まだアイドルがファッション誌に出ていない時代だったんです。だから『オリーブに出られるんだ!』『アンアンにも!』って、いつも、すごくうれしかったなぁ」(『小泉放談』253)と当時を振り返る。
それまでファッション誌に登場したことのなかった小泉今日子が、すぐに誰よりも『オリーブ』や『アンアン』に相応しいアイドルになれたのは、小泉がもともとおしゃれ好きだったことに加えて、自身を客観的に見つめる力に長けていたからではないだろうか。イメージチェンジする時期や方向性を見極める力。小泉の的確な能力はアイドルとしての自己プロデュース力となり、その後ますます開花していく。
ショートカットで自らを「コイズミ」と呼ぶキョンキョンは、「艶姿ナミダ娘」「渚のはいから人魚」「ヤマトナデシコ七変化」で新しいアイドル像を打ち立てた後、「なんてったってアイドル」と自分自身の立ち位置をメタ化してみせた。「イメージが大切よ 清く正しく美しく」──「客観的に見て『この曲を歌えるのは私だけだろう』っていう自信はあったし、そういう周囲の期待を感じてはいた」(日本経済新聞電子版2012年4月2日)。
アイドルを器用に演じることならば、すでに松田聖子らが実践していたが、アイドルそのものをメタ化してみせることは確かに小泉今日子にしかできない離れ業だった。アイドルを演じている「私」の姿を確信犯的に観客に見せるアイドル、それは新しいアイドルのあり方を示すと同時に、従来のアイドル文化の終焉を意味していた。
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つづきは、『小泉今日子と岡崎京子』でお楽しみください。