大人の女には、道をはずれる自由も、堕落する自由もある――。7月3日に発売された『小泉今日子と岡崎京子』は、社会学者の米澤泉さんが読み解く、ふたりのキョウコ。かつてアイドルだった小泉今日子が切り開いた道とは? 一部を抜粋してお届けします。
アイドルは特別な存在ではない
従来のアイドル像からの逃走と決別。小泉今日子が「なんてったってアイドル」を大ヒットさせた1985年は、グループアイドルの走りであるおニャン子クラブが話題になった年でもあった。
もうアイドルは特別な存在ではない。普通の女子高生がクラブ活動のように放課後にアイドルをすることが当たり前になろうとしていた。その後のモーニング娘。やAKB48、坂道グループへと続く、誰もがアイドルになれる時代が始まったのだ。
小泉今日子はそんな時代を「キョンキョン」として疾走していく。「スーパーマイルドシャンプー」から「クノールカップスープ」「ベンザエース」まで数々のCMに出演し、「『広告の時代』のCMクイーン」(助川2015:72)と呼ばれる一方で、『あんみつ姫』『生徒諸君!』などの主演ドラマや映画でもアイドルの域を超えた演技力が高く評価されるようになった。88年公開の『怪盗ルビイ』では毎日映画コンクールとヨコハマ映画祭の主演女優賞に輝くなど、俳優としても才能が花開いていった。
類い稀なるセンスと卓越した自己プロデュース力。従来のアイドル像にとらわれず自己主張するアイドル「キョンキョン」は、同世代の女性たちの支持を集めると同時に、いわゆる「新人類」たちからも一目置かれるようになっていった。当時の言論界の若手論客である野々村文宏、中森明夫、田口賢司の鼎談集『卒業KYON²に向って』(1985)は、80年代の文化的な背景を踏まえたアイドル論だが、そこでも「キョンキョン」は特別な存在として語られている。
同書は、84年から85年にかけて朝日新聞社から毎週刊行された「週刊本」シリーズの一冊であり、当時盛り上がりをみせていたニューアカデミズム(ニューアカ)色が強い内容となっている。
ニューアカデミズムとは、80年代前半から中頃にかけての思想的な流行である。浅田彰の『構造と力』や中沢新一の『チベットのモーツァルト』といった若手学者の思想書がベストセラーとなり、既存のアカデミズムの枠内に留まらない新しい知のブームが起きた。ただ、ポップカルチャーも難解な現代思想の用語で読み解いてしまうニューアカの担い手は、「新人類」も含めてほとんどが男性であり、女性はあくまでも読み解かれる対象にすぎなかった。では、アイドル小泉今日子はニューアカ的文脈でどのように読み解かれたのだろうか。
中森 KYON²は日本に初めて現れたポップなカリアゲの女のコだよね。
(192)
中森・野々村・田口という三人の「新人類」は、自発的に髪を切り、KYON²(キョンキョン)になった小泉今日子を過剰なまでに評価する。
野々村 小泉今日子というのは、ものすごく日本の女の子なんだよね、体型とかあれでもさ。髪の毛を切ることによって、アンドロジナスといってもいいんだけれども、あえて僕がいいたいのは、泡の中から現れるアフロディテと、天の岩戸の天照大神との中間的位置にいるような気がするのね。
中森 アマノウズメノミコトである松本伊代が踊り、岩戸が開いて天照大神であるKYON²が生まれた。
(中略)
田口 伊代は差異を解体した、確かに。ところがキョンキョンは差異を突っ切った。(194─195)
三人によれば、キョンキョンはまさに近代が終焉に向かっている80年代「ポストモダン」という時代に現われるべくして現われた「新人類」ならぬ「新アイドル」というわけだ。そこには、「カリアゲ」と「KYON²」という記号が象徴的に作用していた。
中森 まず、キョンキョンという記法があった。KYON²にくる前段階として。小泉今日子、キョンキョンは髪を切った瞬間にKYON²になったような気がする。(177)
「カリアゲ」と「KYON²」という記号は小泉今日子のリアルな身体性を希薄にさせ、アンドロジナスな存在に仕立て上げた。それは、従来のアイドル=「彼女にしたい存在」という概念を確かに、突っ切ったであろう。
身長153センチという小柄なキョンキョンは、日本女性の平均身長であり、アイドル身長の基準と言われる158センチを下回っている。体型的には彼らが好む「ものすごく日本の女の子」なのだ。しかしながら、小柄でかわいい「微笑少女」はいきなり髪をカリアゲにし、KYON²になった。それは、彼らをけっして脅かさない、彼女にしたい存在であったはずのものが、突如として彼らを脅かす理解不能な存在になったことを意味している。
だから新人類たちは、自らの好き嫌いやタイプを超えて「キョンキョン」を解釈せずにはいられない。なぜ、「彼女にしたいアイドル」はいきなり暴力的とも言える変貌を遂げたのか。これは突然変異なのか。進化なのか。
結果的に彼らは、ポストモダンの時代に相応しい「新アイドル」として「キョンキョン」を高く評価した。いや、彼らは必死に「理解」しようとしたのだろう。いきなり目の前に現われた「カリアゲの女のコ」を、彼らの言葉でなんとか咀嚼せずにはいられなかったのだ。
むすうにからまるニューロンをぶっちぎり言語と論理の連結を約束しようとするシナプスの良心をえげつなくふみにじる力の暴力的な直接性、それが〈KYON²〉だ。
(200)
ニューアカ風に「キョンキョン」を読み解くとこのようになるらしい。それほど、当時の男性たちにとって、キョンキョンは魅力的だが理解しがたい存在だったのだろう。
松田聖子のように単なるショートヘアに留まることなく、カリアゲショートにしてしまうキョンキョン(KYON²)を女性たちは「さすが」と賞賛したが、男性たちは「なぜ」と疑問に感じたのだろう。その「なぜ」の裏返しが、男性中心主義的なニューアカ的言説によってキョンキョンを高く評価し、新しい時代のアイドルとして定義づけてしまうことにつながったのではないか。
「ジェンダーレス」などという言葉が一般化するのはまだ遥か遠い先の昭和末期、聖子ちゃんカットのアイドルや「お嬢さま」のようなわかりやすい「女らしさ」が幅をきかせていた時代ゆえに、カリアゲのキョンキョンは男性たちにそのように解釈されたのだ。
こうして、小泉今日子は、従来の「彼女にしたい存在」的なアイドル像から、大胆に逃走を図った。
まずはビジュアルイメージをチェンジし、自己主張を始めた。キョンキョンとして、声を上げ始めた。80年代の「理想の彼女」としてのアイドルとは、声を持たない偶像であった。人魚姫は人間になることと引き替えに声を失ったが、80年代のアイドルは、アイドルになることと引き替えに声を失ったのである。
だが、「渚のはいから人魚」は違った。カリアゲのKYON²になることによって自ら「理想の彼女」の枠外に飛び出すと同時に、アイドルそのものをメタ化した。結果的に、決して男性を脅かすことのなかった従順なアイドル像を解体したのだ。理想の彼女から理想の「私」へ。男性に好かれるよりもむしろ女性が支持する「自己主張するアイドル」の道を切り開いたのだ。
もちろん、新人類の男性中心主義な言説の中に留まることもなかった。なぜなら、その後の小泉今日子は、ファッションや振る舞いで自己主張するだけに留まらず、自分自身の言葉で語り始めたからである。
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つづきは、『小泉今日子と岡崎京子』でお楽しみください。