好書好日連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。本編より、note掲載時に話題を呼んだエッセイ「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」をお届けします。
* * *
「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」
「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」と言われたのだった。
あまりの衝撃で唖然としてしまった。ひとまず、公平にするためには発言の全容もあわせて伝えるべきだろう。
その人は「新人賞を獲るような小説は今は書けないのかもしれないね。別のやり方で小説を書くしかないのかもね」と付け加えた。理由は、「子どもという大事なものがすでにあるから、(小説と子どもという)二つのものを同時に極めるのは難しい」というようなことを言った。
「今じゃないのかもしれないね」気の毒そうに、少し愉快そうに、そう言った。
私には子どもがいて、そして、今、新人賞を獲るような小説を書けていないというのは事実だった。子どもがいることで、小説を書く時間が取れないのも事実だし、子どもがいることで人生に満足しており、自分は幸せだと思っており、欠落や葛藤が今はそんなにないというのも事実だった。
たとえば、子どもがいるけれど小説家になれない人生と、子どもがいないけれど小説家になれる人生、どちらを選ぶかと言われたら一瞬も迷うことなく前者を選ぶ。もう出会ってしまったのだから仕方ない。こんなに愛しく尊いものに。
自分の中の一番はもうあの子たちに定まっているから、小説家になりたいという気持ちも、小説しか私にはないというような切羽詰まった気持ちも、私はきっと、他の人より弱い。だからその人の言ったことは、私が自分でも思っていることでもあった。それでも、私は本当に驚いた。
──子どもを産んだ人はいい小説が書けない。
「いい小説」とはなんだろう。「新人賞を獲るような小説」とはなんだろう。もしそれが、本当にその人の言う通り、「子どもを産んだ人」や「小説より大切なものがある人」 「自分の人生に満足している人」には書けないのだとしたら、「小説」というのはなんて小さな入れ物だろう。
ちがう。
私の知っている小説は、もっとおおらかで茶目っ気があって、圧倒的に自由だ。いつもこちらの想定を裏切って、この手をすり抜けて、今もほら、思わぬ方へ走り出していく。
私が今、いい小説を書けないのは子どもがいるからじゃなく、たんに私の技量の問題だ。誰しも頭の中にその人にしかない哲学を持っていて、子どもがいる人もいない人も、愛を知る人も飢えている人も、病気の人も健康な人も、みんな固有のそれを持っていて、その違いがひゅっと誰かを救ったりする。それを他の人が読めるかたちにするのが「小説」で、私にはそれをうまく小説にする技術がまだないというだけだ。それでも私には私だけの、哲学があり、物語があり、それは子どもを産んだことで損なわれるはずがない。
今日、私は子どもたちをインフルエンザの予防接種に連れていった。下の子は「ちゅうしゃやだ」と待合室で泣いて、それを上の子がぎゅっと抱きしめてなだめていた。そして上の子は自分が注射される番が来ると、すっと腕を出して針が刺されるその瞬間も顔色ひとつ変えなかった。さらに、自分が刺されるわけではないのに、また泣きそうになっている下の子に「ほーら、ぜんぜんいたくないし!」と言ったのだ。その虚勢がおかしくて、健気で。
寝かしつけのとき、いつもは下の子をとんとんするのだけれど、今日はねぎらいもあって上の子をとんとんしていた。
もう赤ちゃんではない、ぷにぷにもしていない体。
この子が生まれたばかりの頃、私はこの子が死ぬんじゃないかと心配で心配で不眠になって、不眠から軽度の産後うつになった。生後二か月でRSウイルスに感染し、入院したときは気が気でなかった。小さな腕に繋がれた点滴が痛ましくてならなかった。そんな子が、より小さい者のために、その腕を自ら差し出した。涙ひとつこぼさず、声ひとつあげず、なんでもない、と表情まで作って。
どうしてこんな善きひとが、私の人生にやってきてくれたのかわからない。しかも一人だけじゃなく、二人もきてくれたのだ。望外の幸せに打ち震える。神のようなものがやってくれたとしか思えない。
──かみさま
名前もわからぬその人に向かって私は祈る。
──かみさま、かみさま、どうか
このままこの善きひとたちと一緒にいさせてください
善きひとたちにとって、よいものであるように努めますから
だからどうか、一緒にいさせてください
そんなことを週二ペースで考えている。その他の雑事にまみれながら。
だから私はこの先、たぶん、きっと、いい小説を書くだろう。
私だけの、いい小説を書くだろう。
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