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純喫茶図解

2024.07.19 公開 ポスト

阿佐ヶ谷【ヴィオロン】- 音楽を通じて人々の温かさに触れられる場所塩谷歩波

その喫茶店は、ウィーンのコンサートホールの1/25モデルでつくられているという。
コンサートホールの寸法を正確に再現し、理想的な音響を実現するために8ヶ月の工事期間を要した。連なっていた2軒の物件を繋げ、床を堀り、天井を上げ……店主である寺元さんの熱意とこだわりについていけず、工事期間中に大工は3度も変わったそうだ。音へのひたむきな愛情と、そして師への敬意。それらが詰まった名曲喫茶「ヴィオロン」は、二度と真似できない唯一無二の空間が広がっている。

 

ヴィオロンの始まりは、寺元さんが高校生の頃にさかのぼる。九州から上京した寺元さんは、中野にあった名曲喫茶「クラシック」に出会い、強い感銘を受けたそうだ。そこから毎日のように足を運び、店主で画家の美作七朗さんと親交を深め、いつしかクラシックのアンプやスピーカーの修理を任されるようになった。
1980年、阿佐ヶ谷駅から少し離れた静かな路地沿いでヴィオロンは開店した。寺元さんは大学卒業後に一度は就職するも、美作さんのすすめもあり、クラシックのように音を楽しむための喫茶店を作ることを決意したのだ。自らの耳を育てるため、ヨーロッパ各地のコンサートホールを巡った経験を活かして建物内の音響にこだわり、さらにはオーディオシステムも自ら作成して理想的な音の環境を作り上げた。

「美作さんから全てのことを学んだなあ……」
インタビュー中、寺元さんは懐かしそうで寂しそうな声色で、こぼすように呟いた。2人は店主と常連という垣根を超えて、いつしか師弟同然の関係となっていた。開店してから9年が経った頃、美作さんは1989年に死去。最期に立ち会った寺元さんは、美作さんの作品の一部を譲り受け、2005年に閉店したクラシックの一角をそのままヴィオロンに移築した。名曲喫茶クラシック、そして美作七朗の思いは今もヴィオロンで灯をともしている。


細長い形のヴィオロンは、一段下がった長方形の床と、それをコの字型で囲む床の二層に分かれている。ギィギィときしむ床をあまり音を立てないように注意深く歩き、一段下がった床の一席に腰掛ける。ほとんどの座席は奥のスピーカーに向き合うように設置されていて、ゆったりとしたソファに座った途端に真正面から音が迫ってきた。うるさすぎない心地の良い音量で、それでいて澄んだ響き。ヴァイオリンは余韻を持って耳を揺らし、管楽器は包み込むように音が柔らかく、チェンバロは耳の中を踊るように響いている。まるで音の一つ一つが粒になって体の上で弾いているように、音の輪郭を間近で感じられた。普段はサブスクでダウンロードした音楽をヘッドホンで楽しんでいるが、それとは違って体全体で音を楽しむような今までにない音体験だ。

寺元さんに小声で紅茶をオーダーすると、にこやかな表情を浮かべて紅茶入りの白いカップと茶色い液体が入った細長い容器を席まで持ってきてくれた。
「ブランデーをかけてもよろしいですか?」
……紅茶に、ブランデー?頭にハテナを浮かべつつ、好奇心で「ぜひ」と答えた。すると、細長い容器を傾け、紅茶に数滴茶色い液体が落ちる。ふわっと立ち上がるブランデーの芳ばしい香り。
あ、本当にブランデーだ。カップに指をかけて一口ズズ、と啜ってみる。さっぱりとした紅茶の味わいの後に、ブランデーの香りが口の中にじんわり溶けていく。紅茶の味にさらに奥行きを持たせるような、上質な味わいだ。

ブランデー入りの紅茶を啜りながら、店内を見渡してみる。目を閉じて音の世界にどっぷりと没入する人、隣の人と目配せをしながら音を楽しむ人、耳をスピーカーに傾けながら本を開く人。楽しみ方は千差万別だ。しかし、過ごし方も目線すらも全く交わらないのに、同じ曲と同じ空間を共にしているからか不思議な繋がりを感じられる。ああ、この感じは覚えがある。銭湯の湯に浸かっている時と同じ感覚だ。銭湯でも、言葉を交わさずとも人の温かさを感じられる時がある。言葉や特別な行為がなくとも、同じ体験をしているだけで、共有できるものはたしかにあるのだ。

店主のこだわりと想いのこもった場所での、心がほどけるようなあたたかな体験。ただ音を楽しむだけでない他にはない価値が、この建物だからこそあるのだ。これこそが人々が名曲喫茶に惹きつけられる理由なのかもしれない。

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純喫茶図解

深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。

都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。

そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?

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塩谷歩波

1990年、東京都生まれ。2015年、早稲田大学大学院(建築専攻)修了。設計事務所、高円寺の銭湯・小杉湯を経て、画家として活動。

建築図法”アイソメトリック”と透明水彩で銭湯を表現した「銭湯図解」シリーズをSNSで発表、それをまとめた書籍を中央公論新社より発刊。

レストラン、ギャラリー、茶室など、銭湯にとどまらず幅広い建物の図解を制作。

TBS「情熱大陸」、NHK「人生デザイン U-29」数多くのメディアに取り上げられている。

2022年には半生をモデルとしたドラマ「湯あがりスケッチ」が放送された。

著書は「銭湯図解」「湯あがりみたいに、ホッとして」

好きなお風呂の温度は43度。

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