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分断を乗り越えるためのイスラム入門

2024.07.30 公開 ポスト

1400年前から新型コロナの感染対策が示されていた?! イスラム社会と感染症内藤正典

1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。

イスラム社会ではコロナ禍に差別やヘイトが起きにくかった

新型コロナのパンデミックは文字通り世界を覆いつくしました。イスラム世界も、もちろん例外ではありませんでした。この3年を振り返ると、パンデミック下で社会に起きた現象、なかでも社会の分断をめぐる状況について、イスラム世界には一つの特徴を見出すことができます。

一言で言えば、コロナ禍の不安のなかで、「敵」をつくりだして衝突することがなかったということです。

アメリカでは人種差別が改めて深刻な問題となりました。ヨーロッパでも移民への差別、ムスリム(イスラム教徒)への差別のように、ヘイト(嫌悪)が蔓延する3年間でした。しかしイスラム世界では、社会の誰かを敵として排除する動きは顕在化しませんでした。別の言い方をすれば、イスラム社会ではコロナ禍による社会の分断は起きにくかったということです。

 

コロナ禍以前には、「イスラム国(IS)」という大変凶悪なイスラム組織がイラクとシリアで同じムスリムを迫害していました。独裁者に対して民主化を求めたエジプトでは、軍がクーデタを起こして、反対する人たちを激しく弾圧しました。イエメンでは、いつ終わるのか誰にもわからない酷い内戦が続いていました。

このような分断の状況を見ていたので、コロナ禍に見舞われてから、イスラム社会での暴力が減少していったことが不思議でした。

いろいろ考えた結果、この落ち着きの背景には、より大きな災いに対するイスラム独特のレジリエンス(しなやかな強靭きようじん性)があるのではないかと思いいたりました。

預言者ムハンマドは新型コロナにも道を示していた

新型コロナの感染が拡大し始めたころ、世界の各国は対応を迫られました。ごく初期の段階では、“Stay Home”(ステイホーム)ということが盛んに言われました。

とりあえず「家にいろ」とはずいぶん原始的な対策だと感じたのですが、人の密集が感染を拡大させる以上、当然のことでした。

そのころ、イスラム圏でも、宗教指導者や国家のリーダーたちが、みな、「家にいなさい」と言い出しました。WHOの勧告を素直に受け入れたというのではありません。イスラムを創始した預言者ムハンマドの生前の言行を慣行(スンナ)として記したハディースの一節を引いて市民に感染拡大の抑止を訴えたのです。

預言者は「もしあなた方が或る土地にペストがはやっていることを聞いたならば、そこへ入るな。また、あなた方が居る土地にペストが起ったときはそこから出るな」と言った。

(『ハディース イスラーム伝承集成〈中〉』881ページ、牧野信也訳、中央公論社)

ステイホームやロックダウンと同じことをムハンマドが言っていたのです。1400年も前の発言ですが、今日、いくつかの系統の伝承が真正なものとして認められています。

 

すべてのムスリムは、アッラー(神)の言葉そのものであるコーランと預言者ムハンマドのスンナに従わなければなりません。

この2つはムスリムの行動規範の典拠であり、誰もその内容を否定できません。そもそも、否定するならムスリムではありません。

ここに示した一節は、イスラム世界のリーダーたちが国民向けに呼びかけた演説でも引用されました。

トルコのエルドアン大統領は「政府に課せられた使命は、あらゆる措置を講じたうえで、アッラーにまかせることだ」と述べています(2020年3月18日)。

 

ムハンマドの時代とは、ペストが新型コロナに代わっただけで、感染症という点では同じです。しかも、WHOもまた同じことを呼びかけていたのですから、ムスリムから見れば、アッラーはやっぱり偉大だ、神の使徒ムハンマドは、アッラーの教えを基に新型コロナについても道を示していたということになりました。

ただし、ムスリムが実際にそれを守ったかと言えば、守っていないから感染が拡大する結果となったのも事実です。

現実の世界では働かなければならないし、さまざまな楽しみのために人が集うことも簡単には止められません。

預言者の言葉通りに行動しなかったとしても、互いを責めるような感覚はムスリムにはありません。政府の対策がうまくいかなかったとしても、政府を責める声も大きくなりませんでした。

ムスリムは身体をとにかく「洗う」

ムスリムと付きあっていると、彼らが非常に清潔を重視するのがわかります。とにかく「洗う」のです。

手を洗うことはもちろん、礼拝の前には、身体のあちこちを洗って清めます。手を洗い、口をすすぎ、鼻から水を吸い込んで洗うのですから、感染症の予防に必要なことはすべてやっていました。

身体が「汚れた」状態にあるときには、これらの清めをしないと礼拝できないことになっています。排便、排尿、性器に触れた後、男女が接触によって性的刺激を受けた場合……実に細かく規定されています。

コロナ禍になって、日本でも、とくに有効な薬もワクチンもなかった初期には、うがいや手洗いが奨励されましたが、これもすべてイスラムには備わっていたのです。

 

ただ一点、社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)を守ろうという感覚はありません。イスラム社会の場合、家族でない異性間では、そもそも距離が近づくことはないのですが、同性間や家族間の物理的な距離は近すぎます。

なにしろ、独りでいることは悪いと思っている人が多いので、すぐに集まってしまいます。挨拶ではハグをしますし、相手の目を見て大声でしゃべるので、感染のリスクは高かったはずです。家族が病気になったら近くにいてあげようとしますから、ソーシャル・ディスタンスだけは守れませんでした。

関連書籍

内藤正典『分断を乗り越えるためのイスラム入門』

21世紀に入り欧米諸国にとって最大の脅威はイスラム勢力だった。だが、欧米がイスラムを理解せず、自分たちの価値観を押しつけようとしたことが、対立をより深刻にしたのは否めない。1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持ち、信者を増やし続ける宗教・イスラム。その教えの強さはどこにあるのか。暴力的・自由がない・人権を認めない等、欧米が抱くイメージはなぜ生まれ、どこが間違っているのか。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラム入門。

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分断を乗り越えるためのイスラム入門

1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。

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内藤正典

1956年東京都生まれ。同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。一橋大学名誉教授。東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科卒業。同大学院理学系研究科地理学専門課程(博士課程)中退。博士(社会学)。専門は多文化共生論、現代イスラム地域研究。『トルコから世界を見る』(ちくまQブックス)、『なぜ、イスラームと衝突し続けるのか』(明石書店)、『イスラームからヨーロッパをみる』(岩波新書)、『となりのイスラム』(ミシマ社)ほか著書多数。

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