1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。
「イスラム過激派」とは?
コロナ禍とウクライナ戦争の前まで、西欧にとって最大の敵はイスラム過激派のテロ組織とされていました。
マスコミでもずっと使われてきましたし、本書でも使っていますが、「イスラム過激派」という言葉も、「テロ組織」という言葉も、実は注意が必要です。
イスラム過激派というのは、どのような思想潮流、政治運動を指すのかということが問題です。まず、イスラムに従って国を統治するということが前提になるでしょう。こういう国が存在するなら、イスラム教国、あるいはイスラム国家と呼びます。
イランやサウジアラビアも、イスラム国家を標榜していますが、それでは、イスラム過激派の国なのでしょうか。
イランはそう言われることがあります。しかし国民は、必ずしも、イスラム体制を支持していません。
サウジアラビアの方は、イスラム法で統治する「イスラムの国」ですが、イスラム過激派の国とは言われません。アメリカと近い関係にあると、過激派の国とは呼ばれません。
そうなると、ムスリム(イスラム教徒)が多数を占めている国の場合、イスラム過激派というのは、イスラムを軸に世直しをしようとして、暴力を使ってでも政権の転覆を謀る勢力ということになるでしょう。アフガニスタンのタリバンは、そういう組織の1つでした。
タリバンは「テロ組織」ではない
他方、イスラム過激派の「テロ組織」とは、何の悪意もなく暮らしている人びとの命を無差別に一瞬にして奪い恐怖のどん底に突き落とす、「テロ=恐怖」を使う暴力集団のことです。その暴力によって、自分たちが考える「イスラムの敵」を倒そうというのです。これにあたるのは、2001年の9・11同時多発テロを起こしたアルカイダや、2014年から数年間、イラクやシリアで猛威をふるった「イスラム国」が良い例です。
タリバンもテロ組織じゃないかと思われるかもしれませんが、アメリカでさえ、タリバンをテロ組織に指定しませんでした。タリバンは、あくまでアフガニスタンの地を侵略し占領する敵と戦うレジスタンスだったからです。
1990年代に一度政権を取った当時の統治が残忍だったのは事実ですが、それをもって「過激派」と呼ぶことはできても、「テロ組織」とは呼べません。敵というのは、かつてはソ連軍、2001年秋以降はアメリカを中心とするNATO軍、そしてその傀儡政権です。
アメリカは主要メンバーを、個人的に「テロリスト」として制裁の対象にしていましたし、長年グアンタナモなどの刑務所に収監されたメンバーもいます。しかしそれでも、タリバンを丸ごとテロ組織に指定しなかったからこそ、2019年以降、停戦交渉をカタールのドーハで進めることができました。テロ組織に指定していたら、「テロ組織」と交渉することになってしまい、アメリカがずっと掲げてきた「テロとの戦い」の原則が完全に崩壊してしまいます。
気を付けてほしいのですが、隣国パキスタンにも、「パキスタンのタリバン」という組織がありますが、こちらはアメリカ政府からテロ組織に指定されています。2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんを銃撃して瀕死の重傷を負わせたのは、この組織だとされています。
テロは「イスラム原理主義」のせいで起きるのではない
「イスラム過激派」の「テロ」は、ムスリムが置かれている状況によって、つくりだされるものです。欧米諸国は、1980年代に入ったころから「イスラム原理主義」という過激思想があって、それを信奉するムスリムが「テロ」を起こすのだと思い込むようになりました。
きっかけは、イランで起きたイスラム革命とエジプトのサダト大統領の暗殺でした。イランは、1979年に親欧米のパーレビ国王の体制が民衆の怒りで倒された後、ホメイニ師が率いるシーア派イスラム体制の国になってしまいました。そのとき、暴徒と化した若者たちは、テヘランのアメリカ大使館を占拠しました。
共産主義国以外に、アメリカに公然と刃を向ける国があることを想定していなかったアメリカにとっては、大きな衝撃でした。
何かわからない勢力が歯向かってくると、西欧世界は、その背後に「政治的イデオロギー」があると考えます。思想が人を突き動かすのは、近代以降の西欧では、一般的なこととされていたからです。ただ、それをイスラムに当てはめるのは無理があると私は考えています。
エジプトのサダト大統領は、1981年に過激な組織に属するスンニー派の将校によって殺害されます。次のムバラク大統領は、すさまじい勢いで過激派をつぶしにかかります。エジプトの場合は、アラブ民族主義が強かったので、その当時はまだ国民もついてきていました。
しかし、こういう暴力的な政変は、イスラム原理主義やイスラム過激思想のせいで起きたのかと言えば、どうも違うと思うのです。そういう過激思想はありますし、その影響を受けることも確かですが、実際に暴力に訴えたのは、何らかの原因で現状に激しい怒りをもったか絶望した若者たちです。
すでに書いたように、イスラムの教えそのものは1400年前にできたころから何も変わっていません。アッラーのメッセージであるコーランと預言者ムハンマドが生前に示した教えのスンナ、それを書き記したハディースは後世になって変えようがありません。
たとえば、飲酒の禁止はコーランに出てきますが、それを後の世になって、適量ならよいことにする、というような改変は不可能です。イスラムは、何事についても善悪を示します。少し細かく見れば、義務、推奨される行為、善悪不記載(許容される行為)、忌避すべき行為、禁止行為に分かれますが、禁止だった行為が許容される行為に変わることはありません。
ただし、新たに発生した事象やそれに伴う行為については、もとの判断基準がないので、イスラムの先生たちが、既存の規範に照らして判断することになります。
イスラムを純化しなくてはいけないという思想は、イスラムが誕生した当時から連綿とつらなるもので、中世のころにも、近代になってからも、登場します。簡単に言えば、それはコーランとハディースに従うだけでいいのです。この2つの法の源に立ち返れというのが、そもそも西欧から「イスラム原理主義」と呼ばれた運動です。
ただしそれが、現実の政治のなかで大きな動きになるかどうかは、信徒を取り巻く政治環境に左右されます。
アルカイダが、巨大なテロ組織となったのは、オサマ・ビン・ラディンの祖国サウジアラビアの王家が、ムスリムにとっての2つの聖地の守護者でありながら、世界でムスリムを迫害するアメリカの軍事的な保護下に入ったことへの憤懣が、多くの若者を惹きつけたからです。
ビン・ラディンは大富豪の息子で、かなりの資金をもっていましたが、イスラム世界各地の大富豪も、彼の運動に共鳴して資金を提供していました。
イラクで生まれてあっという間にシリアに勢力を伸ばし、世界を震撼させた「イスラム国」もそうでした。
コーランとスンナ(ムハンマドの生前の言行)に忠実に生きなければならない、イスラム世界を統率するカリフが必要だ、という彼らの主張自体は、過激でも暴力的でもありません。そんなことは、イスラムの原点だからです。彼らのことをサラフィー主義者と呼ぶことがありますが、サラフとは、ムハンマドが生きていたころの初期の「先人」のことです。
分断を乗り越えるためのイスラム入門
1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。