1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。
「ふつうの信徒」の思考と行動様式を知る
ムスリムでない私たちの側から見て、ムスリムとどう付きあうかを考えるうえで重要なのは、圧倒的に数の多いふつうの信徒の思考と行動様式です。
髭だらけでターバンを巻いてカラシニコフ銃を担いでいる男性、真っ黒な衣装で全身を覆っている女性。この20年、欧米のメディアはそういう人の姿を映しすぎました。あたりまえですが、世界のムスリムはそういう人たちばかりではありません。
毎日の礼拝を欠かさない人もいればしない人もいるし、時々する人もいる。断食を守る人もいれば守らない人もいる。生涯酒を口にしない人もいれば、酒好きの人もいるのです。
しかし、全体として見れば、イスラムの教えを守る人が圧倒的に多いのは確かです。私たちが知っておくべきは、そのことです。
そして、「イスラムの教え」というのは、私たちが「戒律」と思っていることだけではありません。
教科書的に言うと、イスラムの「戒律」の代表として以下の5つの行為があります。
- (1)「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である」ということを心から信じ、それを唱えること
- (2) 一日5回の礼拝
- (3) 弱者のために喜捨をすること
- (4) ラマダン月に斎戒(断食)すること
- (5) 一生に一度メッカに巡礼すること
これらのなかで、ムスリムにとって絶対なのは、最初の「アッラー以外に神はない。ムハンマドはアッラーの使徒である」を心の底から信じることです。
それがないと、ムスリムにはなりません。ムスリムとは「イスラムする人」のことで、イスラムとは、超越的絶対者である唯一神アッラーにすべて従うという意味だからです。ムスリムか、ムスリムでないかを分ける一線は、そこにあります。
一方、子どもにやさしいこと、ハンディキャップのある人にやさしいこと、年寄りにやさしいこと、旅人に親切なこと、何かを頼まれると断れないこと、食べ物は分け合うこと、こういう面は、私たちが知っている「戒律」を守るかどうかとは別に、ほとんどのムスリムに共通しています。
嘘をついてはいけない、商売は公正にやらなければいけない、理由なき殺人はいけない、というような教え(これも「戒律」と言えば戒律なのですが)については、見ていると、いくらでも嘘つきはいます。商売でインチキをする人もいます。それに、ムスリム同士でも殺し合いをしています。イスラム法に従えば、あれだけ恐ろしい刑罰(石打ちによる死刑)が科される姦通(不倫)にしても、犯す人はいます。
つまり、ムスリムなら神によって禁じられている行為をしないはずだ、というのも現実には合っていません。このことは、規範をもつ他のどんな宗教にも言えることです。
そして教えに反したことをする人はムスリムとは呼べない、と言うことはできません。ある個人が、ムスリムであるのかないのかは、アッラーにしかわからないことだからです。
イスラムには、キリスト教カトリックの教皇のように、神の代理人役をつとめる人はいません。カリフがいれば、神の使徒ムハンマドの代理人になるのですが、それも現在はいません。その状態では、誰かがアッラーの代理人のように、「あいつはムスリムじゃない」と糾弾することは、論理的にもできません。
カトリックでは、信者が罪の告白をして聖職者が赦しを与えたりします。あれも、イスラムではできません。神に代わって罪を赦せるような「聖職者」がいないからです。
分断を乗り越えるためのイスラム入門
1400年前に誕生し、いまだに「生きる知恵の体系」として力を持つ宗教・イスラム。世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代の、必須教養としてのイスラムをまとめた幻冬舎新書『分断を乗り越えるためのイスラム入門』より、一部を抜粋してお届けします。