好書好日「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。
本編より、17年勤めた会社を辞め、「小説家になる」決心をした時のお話を。
* * *
清、会社辞めるってよ
二〇二二年春。新型コロナウイルスの感染者数が急増し、会社のイントラネットでは「出社をなるべく控えるように」というアナウンスが赤太文字で掲出されるなか、編集部のフロアで私はまばらな拍手を受けていた。
十七年勤めた会社を退職する。
二十二歳、新卒でとある出版社に入社した私は、気づいたら同じ会社で三十九歳になっていた。
その会社を、今日辞める。
人間関係とくに問題ないけど辞める。
むしろ上には可愛がられ、下には支えてもらい、同期には甘え、何もかもスムーズで快適だけど辞める。産休・育休・時短勤務とやっぱり正社員最高だけど辞める。仕事は雑誌・ムックの編集だから服装・髪型自由だし、フレックス制だし、長期休暇もとれるけど辞める。
最近、副業OKになったけど辞める。今辞めるとずっと憧れていた退職の挨拶とか送別会とか自粛になっちゃうけど辞める。送別会で山口百恵の「さよならの向う側」歌いたかったけど辞める。四十五歳まで待てば、退職金にチャレンジ資金追加されるらしいけど辞める。仕事、やりがいあるけど辞める。私ってこの仕事向いてるう~って思うけど辞める。家のローン組んだばっかだけど辞める。相談すると「今じゃないでしょ」ってだいたい言われるけど辞める。コロナで先行き不安だけど辞める。何度も辞めるタイミングあったのに、結局辞めなかったけど今度こそ辞める。辞めるったら辞める。
出版社辞めて、フリーライターになる。そんで合間に小説書いて、応募して、文学賞獲って、
小説家になる。
怖っ!
でも、小説家になりたかった。そのためには、会社員じゃ無理だった。
私には子どもがいる。幼児の匠が二人いる。
匠Aの朝は早い。日の出より早い。夜泣きとも言う。一方匠Bはどんなに起こしても起きない。やっとこさリビングまで追い立てても、気づいたら床でまた寝ている。〈朝起きて、保育園に行く〉たったそれだけに各々四十工程くらいある。しかも匠Aと匠Bではその流儀が異なる。匠は双方こだわりが強い。匠Aはお気に入りの靴下がないというだけで、玄関で大立ち回りを繰り広げ、匠Bは穴のあいた「すーぱーはやくはしれるくつ」を履くと言って聞かない。靴下は洗濯中だし、靴は捨ててしまった。電車の時間まであと三十四分。頭の中でドラマ「24」の「ピッピッピッピッ」というタイマー音がずっと聞こえてる。
お迎えから寝かしつけまではさらに多くの爆発ポイントがあり、やっと寝かしつけて寝落ちからも逃れ、運よくパソコンを開けたとしても、私が育児している間に飛び交っていた、ホッカホカの業務メールが受信箱いっぱいに届いている。コロナ禍でテレワークが導入され、寝かしつけ後の残業が可能になってしまった。
たちの悪いことには、私は匠たちも仕事も両方を愛している。喜んでほしいし安心してほ しい。こだわりを叶えてやりたい(時々なら)。だから手を抜くことはできない。そのうち 匠Aのかなり早めな朝が来て、会社からは新しい任務が下りてくる。育児→会社→育児→残 業。それで、私の体力も知力も創造力も尽き果てて、今日もまた小説を書けずに一日が終わる。
書けないから、応募できない。応募してないから、受賞できない。だから小説家になれないのは、しょうがない──。
そうやってやっていくのが、やっていけるのが、急に嫌になった。尊敬していた人の人生が、突然止まってしまった日に。
夢みるかかとにご飯つぶ
好書好日連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。
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