好書好日「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。
本編より、小説家を目指す中、家事育児に追われる清さんが、芥川賞・直木賞のニュースを聞いて自分の一日を振り返った時のお話をお届けします。
* * *
子どもを陽にあてただけの今日
二人目が生まれて、育休に入り、また小説を書こうと思った。赤ん坊が泣いたらすぐに授乳できるように寝室の隣のウォークインクローゼットに一人用のこたつを置いて、書くことにした。
そこにぶら下がるほとんどの服が着られない。ワンピースは授乳できないし、スカートは自転車に乗れない。ジーンズは拡がった骨盤が引っかかって穿けず、白いシャツもこまかな刺繍の服も子どものどろんこの手やよだれで汚れるので着られない。それらはみな、文句も言わず、生まれてきた子の前にかしずいている。その優しいとばりの中で私は小説を書こうとする。
すると聞こえてくる。
ガァーゴォーという夫のいびき、すぴーすぴーという上の子の鼻息、すぅすぅという下の子の寝息。
しばらくじっと聴き入る。
夜、お風呂上がりの子どもたちに保湿クリームを塗っていたとき、芥川賞・直木賞のニュースが流れていた。受賞者はまた私より若い人だった。この人たちは、たくさん本を読み、たくさん考え、小説を書いたのだろう。濃厚で充実した時間が結実の時を迎えたのだろう。
一方、私が今日したことといえば、久しぶりのお天気だったので、赤ん坊をベビーカーに乗せ、いつもよりちょっと遠くてちょっと大きい公園へ散歩に行ったことだった。散歩といっても、まだ子どもはつかまり立ちがやっとだ。ピクニックシートを敷いて、そこに座らせる。子どもはじっと空を見つめて、自分の拳の味を確かめている。小さなまあるい背中にそっと手を当てる。日なたを吸ってあたたかい。日差しを浴びれば、ビタミンDができるらしい。ビタミンDができれば、骨が丈夫になるらしい。
──この子を、どうぞ、お願いします。
何者にかはわからないけれど、祈りたくなって瞼を閉じる。日なたは私の瞼にも等しく優しい。
子どもを陽にあてただけの今日。
人生の中のエアポケットみたいな時間。
子どもが育ったとき、とくに感謝もされない、自分でも忘れてしまう、今日。
なんて贅沢な今日だろう。
この子が生まれたとき、コロナが猛威を振るっていた。家族の見舞いも禁止されて、上の子とも会えなくて、退院する日、しんと静まり返った街で、赤ん坊とタクシーに乗った。運転手さんが、赤ん坊を抱いた私を見て言った。
「今日ちょうど消毒をして、お客さんが最初のお客さんなんですよ。神様がそうさせたんですかねぇ」
コロナで外出する人がいなくなり、タクシー運転手が廃業に追い込まれているというニュースをその頃、よく見た。おじいちゃん運転手さんは、私と赤ん坊と、たぶん自分を、励ますように明るい声で言ってくれた。
「コロナなんかに負けてられないですね! こんなおめでたいことがあるんだから、世の中まだまだ捨てたもんじゃないですよ」
ありがとね、と私は赤ん坊に心の内で語りかけた。
あなたが来てくれて、優しい世界が始まった。
あなたが来てくれたことの祝福を、忘れない世界を私は作る。
その決意の先にあったのが、陽にあてただけの今日だった。
先日、芥川賞を受賞された九段理江さんに取材する機会があった。
──村田沙耶香さんの小説に『コンビニ人間』ってありますけど、それでいえば私は〈小説人間〉なんです。 時間小説を書いています。〈小説を書く〉という行為を、文字を書いて それが出力されて、って考える人が多いと思いますが、私は全然ちがって。音楽聞いている 時間も寝ている時間も誰かと話している時間も、全部小説を書いていると思っているんですよ。
(好書好日〈【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。〉より)
その原稿を書きながら思った。私もきっとあの日々に、小説を書いていた。
夢みるかかとにご飯つぶ
好書好日連載「小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。」が話題の清繭子さん、初エッセイ『夢みるかかとにご飯つぶ』刊行記念の特設ページです。
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