「ユウダイってyou dieになるから英語圏じゃ自己紹介できないね」
カワさんは思いっきり不機嫌そうにそう言って、男の子の残したうどんの入った容器をわざと大きな音をたてて片づけた。その日、事務所に泊まっていたのは私の他に同じく大学生AV嬢のユカちゃんだけだったのだけど、カワさんがキッチンの方へ消えたタイミングで私たち二人は「怖~」という声にならない声を出し、目を合わせて頷き合った。ユウダイは幸い、カワさんの言葉を理解できるほどまだ頭脳が発達していないので、意に介さない様子で電車が連結したような自分の玩具をガチャガチャやっている。
二歳か、あるいは三歳くらいだったユウダイは、名の知れたストリップの踊り子の一人息子で、一時期頻繁に事務所に預けられていた。私は劇場の仕事をしていなかったので、有名ストリップ嬢の方は事務所のプロフィール写真などでしか見たことがなかったが、寝坊癖を心配されてよく事務所に泊まっていたせいで、息子の方とは顔見知りだった。大人しいのか言葉が遅いのか、喋りかけられた記憶はないが、一度北海道出身の新人女優が泊まっていた時にはえらく懐いてその娘の膝の上でキャッキャと笑っていたので、彼ではなく私の方の人格や言葉に問題があったような気もする。
事務所で唯一の女性マネージャーであるカワさんの子供嫌いは露骨で、いかにも押し付けられて迷惑といった様子でご飯を食べさせたりおむつを替えたりするので、別に子供好きというわけではない私でもちょっとユウダイを不憫に思っていた。昼間の事務所には社長はじめ他にもマネージャーやシステム担当の童貞などいろんなスタッフがいるのに、泊り番は基本的にカワさんの役目で、それは事務所にちょくちょく女の子たちが泊まることを思えば合理的なことなのだけど、だからって子供の世話を引き受けたつもりはない、というのがカワさんの主張であった。
「子供嫌いな人がするべき役割じゃないんだよね。社長が引き受けたんだから社長が泊まって世話すればいいじゃない、どうせ飲みに行って風俗でも行ってるんだよ今日も」
ユカちゃんと私が泊まっていたその日のカワさんは、いつも以上に機嫌が悪いようで、ぐちゃぐちゃになったうどんと食器、子供用の食事マットを片付けた後も止まらない愚痴に、私とユカちゃんは、あははそうですよね、たしかにたしかに、と適当な相槌を打つしかなかった。でも私も、そこそこいい給料をもらっているからといって急に自分とは関係のない子供の世話を押し付けられたカワさんの苛立ちは多少理解するところはあった。男性スタッフが子供の世話を積極的に引き受けるのを見たことはない。
「せめて女の子ならいいけど。おとなしそうだし」
冷蔵庫から出したコンビニの缶酎ハイと読みきりのマンガ雑誌を持って、二人掛けのソファに移動したカワさんは、誰が用意したのかわからない子供用チェアに閉じ込められたままのユウダイがグズグズと奇声をあげるので仕方なく再び立ち上がり、十キロを超える子どもを抱き上げて椅子から解放し、来客用の大きなソファの方へ玩具と一緒に運んだ。
「男の子の方が人見知りっていう印象はある」
子供どころか大人とのコミュニケーションも極めて苦手なユカちゃんが突然喋ったので私もカワさんもなんとなく一瞬固まり、少し間をあけて、ああうんそうだね、と言い、しかし心の中でおそらく同時に、一番の人見知りはアンタや、と思っていた。ユカちゃんはビデオの簡単なインタビューすら詳細な台本がないと遅々として進まないくらい、喋るのが嫌いな女で、事務所に何人か女の子がいても我関せずという様子でメールをしたり雑誌を見たりしている子だった。
私はというと、事務所に女の子がいればべらべらと煩く喋る反面、男性マネージャーや監督や男優と二人きりになると何を喋っていいのかわからず、喋りかけられてもものすごくつまらない返ししかできない、典型的な男の子苦手系女子である。さすがに男ばっかり多い会社に勤めたりしつこくホストクラブに通ったりして多少は男性免疫がついたものの、いまだに二人で食事をするような男友達はほとんどいないし、担当編集者も仲が良い人はみんな女で、性質自体はあまり治っていない。
二十歳そこそこだった当時は今よりさらに、男というとすぐに変に意識してしまって不自然な態度をとってしまうところがあり、だからカワさんの「女の子ならいいけど」という言葉には結構同感だったのだ。
要はその夜、北海道出身の嬢やユウダイのママであるストリップ嬢と仲良しでユウダイともしょっちゅう出かける劇場の嬢たちは誰もおらず、事務所にいたのは、根っからの子供嫌い、根っからのコミュ障、根っからの男の子苦手、という三人だった。子供を喜ばせる発想のない女、人を喜ばせる発想のない女、男を喜ばせる際に股を開く以外思いつかない女。王子様と三人の問題のある大人たち。誰一人ユウダイに積極的に関わり、膝に乗せたりゲームに付き合ったり歌を歌ったりしないまま夜は更けていく。
想像力のない大学生だった私は、父親が最初からおらず、母は公演が忙しくてしょっちゅうわけのわからないAV事務所に預けられる幼児をなんとなく不憫に思っていたし、男を喜ばす才能はなくとも何かちょっとは幸福のお手伝いをした方がいいのではないかと薄々感じ、自分が夜通し食べるつもりでAV撮影現場からくすねたツナギと呼ばれるお菓子のいくつかをテーブルに置いてみるくらいはしていた。それはおそらくユカちゃんも一緒で、ユウダイがよちよちと歩いて取ろうとするティッシュや本棚の雑誌(エロ本)を親切にとってあげるくらいはしていた。
とはいえユウダイ自身が持ち込んだ電車玩具を除くと、AV嬢とストリップの踊り子をマネージメントする事務所に子どもの喜びそうなものなどひとつもない。玩具と言えばバイブやローターしか出てこない世界線で、スマホも子供向けユーチューブもない時代に、コミュニケーションに問題のある女子大生二人が子供の幸福を手助けするのは限りなく無理ゲーに近かった。
ユウダイは時々ソファにつっぷして泣いたり、電車の玩具を床に落としてカワさんにうるさがられたりするだけで、我々には特に何も期待していないようにも見えた。翌日のAV撮影に響かないよう、ゼロ時までには寝るとして、残り二時間くらいは何とかしてこの王子様を囲んだ気まずい空気を多少和らげないといけない。
「弟とか妹とかもいなかったから、小さい子とどう遊んでいいのかよくわかんないんだよね」
ユカちゃんがコミュ障丸出しの定まらない視線で誰にというわけでもなくそう言ったので、私も何気なく便乗した。
「うん、何したら喜ぶのかなとかわかんない。嫌いとかじゃないんだけど苦手というか」
うんうん、うんうん、とユカちゃんと私がコミュ力低いなりにぶつぶつ言って頷き合っていると、今思えば若いに違いないが、少なくとも女子大生よりは何かと人生経験を積んでもう少し世界が見えているカワさんは、口をゆがませて苦笑いした。
「いや、そう考えてしまうところがまさにこいつらの力なわけよ」
いまいち入り込めないのか読み切り漫画雑誌を数ページのところで裏返して置いたままだったカワさんは、そろそろオムツがどうの、と言ってユウダイの首根っこを掴んで別部屋に連れて行き、しばらくするとリフレッシュした幼児とともに再度リビングルームに戻ってきた。
「うちら子供を必死に守ろうとか一切思ってないけど、結局この人が泣けばなんとなく心配して面倒見るし、オムツも最低限変えるし、ロクなもんじゃなくてもご飯分け与えるし、転んだりとかしたら抱き起すじゃん。子供嫌いの私に預けられても、命を落とすことはないわけじゃん。子供の何が嫌いって、何の代償も支払わずにこっちに面倒見させる、圧力みたいなのが備わってるとこよ。それが分かってるから親も預けていくわけだし、この子も大人しく預かられる」
缶酎ハイ三本目に突入していたカワさんの口は通常モードよりさらに悪くはなっていて、そのせいで私もユカちゃんもなんとなく彼女の悪態としてその言葉を処理してしまったのだけど、さらに夜が更けて、こちらも少し酔っぱらって、電池切れのユウダイを布団に運んでみると、カワさんの言っていることはもっともだった。
カワさんも私たちも一円も支払われることなく、半ば不可抗力でこの王子様と一晩過ごすことになっただけだけれど、それでも最低限この小さな命が失われない程度には彼のために尽くすし、彼が手を伸ばせばその先にあるものを取ってあげるし、泣けば一応携帯や雑誌から顔を上げる。なんという支配力。私たちは喉が渇けば冷蔵庫まで歩いていくしかないし、トイレに行きたければやはり便器まで這ってでも行くしかないというのに。
ハタチそこらの当時の私は帰って来てと言っても帰ってこない彼氏に悩み、お気に入りのホストを席に戻すために何万も使わなければいけなくて、欲しいものは裸商売で稼いで自分で買うか、嫌いなおっさんと寝て買ってもらうかくらいしか思いつかなかった。それでもなんとか世界を自分の思うようにしようと美容エステやら下着やらに大層な金額を払い、可愛くなるための化粧の時間は惜しまず、挙句大学で余計な知識なんかをつけていたわけだけど、私の欲しい権力を持っているのは、そういう余計なものが一切付着する前の赤子だった。
愛される力って、何かに優れた存在になるにつれてどんどん消えていくのであれば、もうこれ以上何かの努力をして優れた人間になろうなんて思わない方がいいんじゃないのか、とか、思えばホストクラブに飲みに行ったって、大人しく待って気を遣える女よりも、担当が離れると情緒不安定になって人の迷惑も顧みず泣き出したり暴れたりするオンナの方がなんだかんだと構われるよな、とか、心の底で愛されたところで別に腹は膨れないし嫌われながらもかまわれる方が実質的には得だよね、とか思って、モテに関する思考が深まった夜だった。
だって誰も心の底でユウダイを愛している者のいない部屋で、我々を動かしていたのは愛じゃなくて泣き声だったのだから。
瀬戸際の花嫁の記事をもっと読む
瀬戸際の花嫁
人気連載「夜のオネエサン」がシリーズが帰ってきました! 妻になり、母になることになった鈴木涼美さんが、人生の思いがけない展開にときに戸惑い、ときに喜びながら、「夜のオネエサン」たちの結婚・出産について思いをはせます。