サラブレッドが引退したあと、どんな余生を過ごすのか。想像したこともなかった。競馬に興味のない人でも「ディープインパクト」という馬の名前は知っているだろうか。競馬史に残る強さを見せたスターは、引退後その「血」を残すべく種牡馬としても活躍し、圧倒的実績を残した。けれど、そんな王道を歩める馬はごく僅かだ。毎年約7000頭も活躍を期待されて生まれてくる競走馬がいる反面、引退する馬も約六千頭おり、その多くが行方不明なのだという。
人と動物の共生をテーマに、ペット動物である犬や猫の殺処分問題や、動物園で飼育される動物に関するノンフィクションを執筆している著者は、競馬業界の問題を時折耳にしつつも閉鎖的世界だけに見て見ぬふりをしてきたという。しかし、約六千頭が行方不明という具体的数字を知って衝撃を受ける。そしてその情報を発信したのが競馬を管轄するJRAの職員であることにも驚き、身内の批判を恐れない姿勢にも惹きつけられた。「“社会が良い方向へ変化する過程”をリアルタイムで追うことができる」という期待を抱き、「引退競走馬支援」に関わる人々の挑戦やアイデア、それに伴う社会の変化を記録したいと、取材を決意する。
著者は、まずは馬主になる(!?)ことからはじめ、各地を訪ね歩き、足掛け四年という歳月に及ぶ取材を通して、社会と競馬の思いがけない関わりを描いていく。例えば、引退競走馬の話題を持ち出すと「競馬なんか廃止すればいい」という極端な声を聞くときがある。けれど話はそう単純ではない。現在のJRAには約3兆円という一大産業とも言える年間売り上げがあるそうだ。そのうちの十パーセント(2022年度においては、約3700億円)が国庫納付金となっており、そのうち4分の3が食肉の流通や家畜伝染病の防止などの農林水産省の畜産振興事業に、残り4分の1が厚生労働省の社会福祉事業に使われているという。それを知ると私たちの生活と競馬を切り離して考えることは難しい。
具体的数字の衝撃も大きいけれど、本書の大きな魅力は取材対象者たちの、馬に向けられた愛に溢れる眼差しだ。馬と人との関係性は決して一方向のものではなく、互いに信頼を得て成り立つもの。その特異性は「ホースセラピー」など福祉の分野でも生かせ、その対象は障がいのある人だけでなく、不登校や出社拒否の人、鬱、認知症、統合失調症を患う人、依存症を抱える人などかなり幅が広いそうだ。“誰もが生きやすい社会の実現”を目指したいという獣医師の力強い言葉も心に刻まれた。ホースセラピーは一例で、馬には大切な活躍の場がたくさんあることもわかる。引退競走馬の行く末に光が当たることは、世の中の均整がとれるということではないだろうか。生きる物の命の尊さを、あらためて思い知らされた。
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