会社を離れて自由に生きたい。でも、辞めて食べていける? お金がなくても幸せな人生なんてあるの? アフロえみ子こと稲垣えみ子さんが、朝日新聞社を辞めて「50歳、夫なし、子なし、無職」になるまでの悪戦苦闘を明るくリアルに綴った『魂の退社 会社を辞めるということ。』より、プロローグをお届けします。
9月28日(土)には、フリーアナウンサー堀井美香さんとのトークイベント「おばさん、人生を二度生きる!」を開催します。こちらのご参加もお待ちしています。
* * *
まさか自分にこんなことが起きるとは思っていなかった。少なくとも10年前までは。
大学卒業以来、28年間勤めていた会社を辞めることになったのである。
50歳、夫なし、子なし、そして無職。まさに文字通り「糸の切れたタコ」だ。しかもまったく若くない。というより日々老いを感じる年頃である。細かい字はまったく読めないし、記憶力の明らかな減退にもおびえている。
しかしですね、私は今、希望でいっぱいである。いやホントですよ……いや、正直に言えば不安もある。いや、本当に正直に言えば不安でいっぱいだ。ものすごくいっぱいだ。それでも、やっぱり希望にあふれているのである。……と言っておく。
会社を辞めると宣言した時、周囲の反応は驚くほど同じであった。
まず言われるセリフが「もったいない」。
え、もったいない?
な、何が?
答えは様々だったが、要するに、このまま会社にいた方が「おいしい」じゃないか、ということのようであった。
確かに私が勤めていた「朝日新聞社」は大企業である。給料も高く、広く名も知られ、いわゆるステイタスも高いとされている(ステイタスの方は最近微妙だけど)。加えて、当時私が担当していたコラムはありがたいことに読者から好意的に受け取められていた。すなわち社内でも居心地のよい立場にいたのである。それなのに、なぜそんな恵まれた境遇を捨てるのかモッタイナイ、ということなのであろう。
うーん。この問いに一言で答えるのは難しい。そう言われると確かにモッタイナイ気がしてくる……。ああ早まったかしら……いやいやイカンイカン。ここでぐらついている場合ではない。
あえて一言で言えば、私はもう「おいしい」ことから逃げ出したくなったのだ。
「おいしい」というのは、実は恐ろしいことでもある。例えばおいしい食べ物、寿司やステーキやケーキを毎日食べ続けていたらどうなるか。確実に健康を害して早死にするであろう。しかし、いったんこういうおいしい食べ物にはまってしまうと、なかなかそこから抜け出せなくなる。
なぜなら、大きい幸せは小さな幸せを見えなくするからだ。知らず知らずのうちに、大きい幸せじゃなければ幸せを感じられない身体になってしまう。
仕事も同じである。高い給料、恵まれた立場に慣れきってしまうと、そこから離れることがどんどん難しくなる。そればかりか「もっともっと」と要求し、さらに恐ろしいのは、その境遇が少しでも損なわれることに恐怖や怒りを覚え始める。その結果どうなるか。自由な精神はどんどん失われ、恐怖と不安に人生を支配されかねない。
あ、もちろんそうじゃない人もたくさんいると思います。でも私のように欲深くプライドの高い人間は、あっという間にこのワナに陥ってしまう確率が非常に高い。
つまり、私は「おいしい」ことからもういい加減逃げ出さねばならないという恐怖感にとりつかれていたのである。
そして、もう一つ必ず返ってきたセリフが、「で、これから何するの?」。
いや……すみません。何もしないです。できれば定職に就かずにやっていきたいと思ってます。
するとみなさん、とても困った顔をする。特に会社の同僚は、何だかとても不満そうだ。
いやいや、別にみなさんの仕事や生き方を否定してるわけじゃないんですよ! 真っ当に会社で働く人たちが日本を支えているんですから。
しかし、会社で働くことだけが真っ当な人生なのだろうか。
確かに、会社で働くことには多くのメリットがある。よき同僚に刺激を受け、助けられ、時にはけんかもしながら自分を育てていくことができる。もちろん遊びではないから多くの理不尽な仕打ちにも耐えねばならないが、その逃れようのない試練の中でどう立ち居振る舞うかは、ドラマ「半沢直樹」が描いた通り、そのすべてが一編のドラマである。その意味では、理不尽さこそが会社の醍醐味(だいごみ)であるとも言えよう。
私もそうやって会社に育てられてきた。朝日新聞という会社に就職していなければ、今とはまったく違う人間になっていたことは間違いない。
だが、人は人に雇われなければ生きていけないのだろうか?
雇われた人間が黙って理不尽な仕打ちに耐えるのは、究極のところ生活のためだ。つまりはお金のためだ。もちろん仕事には「やりがい」があり、仕事が「生きがい」だという人も多いだろう。しかし、もしお金をもらえなかったとしても、あなたはやはりその会社でその仕事をすると言いきれるだろうか?
つまり、私はこう言いたいのだ。
会社で働くということは、極論すれば、お金に人生を支配されるということでもあるのではないか。
つい先ほど「真っ当に会社で働く人たちが日本を支えている」と書いた。それは本当にそうだと思う。
しかし、会社で働いていない人だって日本を支えている。
自営業の人たち、フリーランスで働く人たちは言うまでもない。さらに、お金を稼いでいない人たち、例えば専業主婦、仕事を辞めた高齢者、何かの事情で働けない人、子どもだって、みんな日本を支えているんじゃないだろうか? 食事を作る、掃除をする、孫と遊ぶ、何かを買う、近所の人に挨拶をする、誰かと友達になる、誰かに笑顔を見せる―ー世の中とは要するに「支え合い」である。必ずしもお金が仲介しなくたって、支え合うことさえできればそこそこに生きていくことができるはずだ。
しかし会社で働いていると、そんなことは忘れてしまう。毎月給料が振り込まれることに慣れてしまうと、知らず知らずのうちに、まずお金を稼がなければ何も始められないかのように思い込み始める。そして、高給をもらっている人間がエラいかのようにも思い始める。
だから、会社で働いていると、どうしても「もっと給料よこせ」という感覚になる。これは、どんな高給をもらっていても同じである。それは当然の要求かもしれないし、そうではないかもしれない。もちろん、会社側は「そんなに出せない」と言う。それは当然の回答かもしれないし、そうではないかもしれない。
しかし私は、もうその争いに意味を感じなくなってしまった。
なぜそうなったのか、改めて考えるとこれも一言では言えないのだが、確実に言えることは、一つには、これまで望外の幸運に恵まれて十分すぎる報酬をもらってきたということがある。さすがの強欲な私も、「もっとよこせ」ということはもちろん、この水準のものをもらい続けることがはばかられる心境になってきたのだ。何しろ私の場合、今ですら、目もかすみ記憶力も思考力も体力も衰えてきていることは自分がいちばんよくわかっている。
加えて、人生の様々な出来事や出会った人々に影響され、いつの間にか、あまりお金がなくても人生に満足できる体質になってしまった。つまり、「お金」よりも「時間」や「自由」が欲しくなったのだ。
だからといって働きたくないわけではない。働くとは人に喜んでもらうということでもある。来る日も来る日も遊んで暮らしてばかりいたら、きっと人生はとても孤独なものになりそうな気がする。お金から自由になったはずが、むしろお金を払わないと相手にしてもらえない人間になってしまうんじゃなかろうか。お金のためでなく、人とつながるために働くということがあってもいいのではないだろうか。
そう思うと、何だか夢が広がってくる。働くとは何か、生きるとはどういうことか、「会社」という強力な磁場を持つ組織から離れて一匹の人間として考えてみたいのである。
まさに人生をかけた冒険。老いを前にした最後の大ばくち。なんちゃって。
どうですか。なかなかにかっこいいでしょう。
しかしですね、人生はもちろん甘くないのである。
準備は万端、なはずだった。口ではうまいことを言う一方で、実はなかなかに現実主義者で戦略家でもある私は、その来るべきエックスデーに向けて実に周到に長い時間をかけて外堀も内堀も埋めてきたつもりであった。
しかし、実際に会社を辞めてみて私の身の回りに起きたことは、まあ何ということでしょう、想像もしなかった打撃の連続だったのです。
おもろうて、やがてかなしき無職かな
会社で働くことに疑問を持っている人、自分も会社を辞めたいと思っている人、そして一生会社にしがみついて生きていこうと思っている人。この本が、すべての人に、改めて「会社で働くこと」について考えるささやかなきっかけとなれば幸いです。
* * *
9月28日(土)、フリーアナウンサー堀井美香さんとのトークイベント「おばさん、人生を二度生きる!」を開催!
稲垣さんと同じく50歳で会社を辞めた堀井美香さん。第二の人生に踏み出していま思うこと、人生の選択に迷っている人たちに伝えたいこと等々、お二人のトークをどうぞお楽しみください。お申込みは幻冬舎カルチャーのページからどうぞ。
魂の退社 の記事をもっと読む
魂の退社
出世競争や「もっと給料を」という欲望からもう自由になりたい―― 人生の折り返し地点にさしかかり、そんな思いが日に日に強くなる。だが会社を辞めて食べていけるのか?お金がなくても幸せな人生とは? 大手新聞社社員が「50歳、夫なし、子なし、無職」になるまでの悪戦苦闘を明るくリアルに綴る。すべての働く人に贈る、勇気と希望のエッセイ。
- バックナンバー