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眠れぬ夜のひとりごと

2024.09.15 公開 ポスト

左上の角が赤いのが君の印真木あかり

いっそ孤独に働きたい

 

もうずっとずっと昔のこと、アルバイト先の人間関係で失敗をした。皆と一生懸命コミュニケーションを取ろうと頑張ったのだけれど、きっとそれは変だったり、私の何かがいけなかったりしたのだろう。何を話してもどう接しても嘲笑か叱責が返ってきて、逃げるようにしてアルバイトを辞めた。

もう、できるだけ人とかかわらずに生きていきたい。そう思って選んだのが、ポスティングのアルバイトだった。ショルダーバッグに2種類の宣伝ハガキを入るだけ持って、ゼンリンの住宅地図を片手に担当エリアにある家々のポストに投函して歩く。ハガキにはマジックで小さく印がつけてあり、アルバイトごとに違う。問い合わせ・サービス申し込みという形でハガキが事務局に返送されると、配布したアルバイトに報奨金がつくという仕組みだった。

「ハガキを500枚くらい束にして、左上の角をマッキーで一気に赤くしてくれるかな。それが君の印」

次の日から、宣伝ハガキ(左上の角が赤)を配り始めた。季節は晩秋で、枯れ葉が冷たい風に煽られて道路の隅に吹き寄せられていく。思わず首を縮めてしまう寒さだったが、相手の顔色ばかり伺うような日々のほうがずっと寒かった。無視されたんだ、とわかった瞬間の、心臓が冷えるような感覚。ちらりと投げられた視線の、氷のような冷たさ。それに、15分ほども一生懸命配っていればすぐに暑くなった。東京は坂が多いし、マンションの入口が階段という物件も多いのだ。明日はもっと薄着で来よう、と思った。

配っていたのは、廃品回収業者と不動産業者の宣伝ハガキだった。受け取りに行くとき、どちらの社長にも会ったが、「よろしく頼むね」「配ってくれてありがとう」とニコニコしている、優しいおじさんたちだった。彼らのために頑張りたいと素直に思えた。

斜めがけにしたバッグから1枚ずつ抜き取り、家々のポストに入れていく。人とコミュニケーションを取る必要は一切ない──と思っていたのだが、それは誤算だった。私が誰とも目を合わせず口を聞かずにいても、世界はガンガン私に干渉してくる。ポストに入れていると「ゴミを入れんなよ!」「邪魔だよ!」などと罵声が飛んだ。管理人が飛んできて、ハガキを検分したこともあった。詐欺業者でもピンクチラシでも、カルトでもない。それでも、思わず身をすくめるような声が少なくなかった。

気持ちはわかるのだった。DM全盛期の当時、都心に住んでいればポストは1週間も開けずにいればチラシで満杯になった。ハウスメーカーにマンションデベロッパー、水道工事に自動車ローン、引っ越し、便利屋、などなど。人生のある瞬間では有用な情報でも、だいたいの場合は「今じゃない」ことばかりだ。帰宅すれば毎日、それらを仕分けする作業が待っている。「ゴミを入れるな」と言われても仕方はない。まったくもって仕方ない。

都会の朝の真ん中で

とはいえ声を荒げられるのはつらいので、人がいない時間を狙うことにした。朝、暗いうちから起きて担当の街区に向かう。そして人々が目覚め始める頃までに配り終えるようにしたのだ。前夜に地図を確認し、効率よく回れるルートを検討した。このしぶとさをコミュニケーションでも発揮できたら良かったのだが、その前に心が折れてしまった。冬の朝は寒い。手はかじかみ、つま先はもはや感覚もない。でも、そんなことはなんでもなかった。白々と明けゆく、がらんとした都心の街も好きだった。自分はなんのために上京したのだろう、と立ち尽くす朝もあった。

しかし、やはり人とは会ってしまうのだった。早朝が本番の人々──そう、新聞配達員である。彼らが浴びせてきた罵倒が最も粗野だった。彼らの仕事の邪魔をしないよう気をつけてはいたが、それが気に障ったのかもしれない。ハガキを配るほどに鞄は軽くなったが、心は暗く沈み、宣伝ハガキを作った社長さんたちの笑顔が脳裏に浮かんだ。「必要な人に届きますように」、いつしか願いをこめてポストに入れるようになっていた。

クリスマスが過ぎ、年が明けた。雨が降っていない日は毎日、宣伝ハガキを配った。最初の担当エリアはすっかり配りきってしまい、少し遠い街まで足を延ばすようになっていた。そのアパートは築50年にもなるだろうか、色褪せた木目模様のドアの下はささらのように割れてめくれ上がり、鉄階段は錆が目立つ。2階のベランダなど、明らかに傾いでいる。さすがに人は住んでいないのではと思わないでもなかったが、枯れた雑草を踏み分け、コンバースの靴底で砂利の音を聞きながら1階のポストに向かった。

宣伝ハガキを入れたその瞬間である。音もなく玄関ドア──下のほうが割れてめくれ上がったそれが開いて、老女が顔を出した。そしてポストを開けると、入れたばかりの宣伝ハガキを出してじっくりと見た。怒られる前に逃げよう、と思った瞬間、老女はふわりと微笑んで「まあ、素敵なお知らせをありがとう」と言った。それが、ポスティングのアルバイトで唯一かけられた、優しい言葉だった。

かじかんだ指で宣伝チラシを配るなか、いろいろな人がいろいろな言葉を投げつけてきた。まわりにそうした言葉を使う人がいないので驚いたが、世の中には罵倒語がすんなりと出てくる人がいるのだ。私にとっては彼らの仕打ちは理解できないが、彼らにとってもまた私は理解の外にある存在なのだろう。近づかなければ、それでいいのも気が楽だった。陰口を叩かれ続けるのに比べれば。無視され続けることに比べれば。逃げ場のないあの環境を思えば、怖くても自由な世界のほうがよかった。

そして春が来る

きんと張り詰めた寒さが緩み、夜明けが目に見えて早くなってきた春の盛り、3足目の靴を履き潰したところで私はポスティングのアルバイトを辞めた。真面目に配っていたのが良かったのか、宣伝ハガキ(左上の角が赤)のレスポンスはかなり良かったのだという。次に配るチラシを受け取りに行くと、社長が言った。

「事務所で働くのは、どうかな」

事務所では4人の人が働いていた。陽気な社長、寡黙な社員、マイペースなアルバイト2人。基本的に暇で、社長は「北斗の拳」のタイピングソフトに夢中だった。暇さえあれば対決を持ちかけてきたので、全員がタッチタイプをマスターした。劇団員のアルバイトが公演をするときは、社を挙げて観劇に行った。宣伝ハガキを刷り、マッキーで印をつけ、アルバイトに渡す。その合間に「北斗の拳」をやって、どうでもいい話をした。うまく話せなくても、「それってこういうこと?」と誰かが話を汲んで、つないでくれる。私は少しずつ笑えるようになった。

その後2回、社会にうまくついていけなくてコミュニケーションを完全に絶った生活をすることになる。今にして思えば、傷をなめてじっと回復を待っている時間だったのかもしれない。焦って終わって言える関係にしがみついたり、別の人とつながりを作ろうともがいたりしても、ネガティブな発想が胸のなかを黒く塗りつぶしているうちはうまくいかなかっただろう。

神田の埃っぽい裏通りにあった事務所のビルはすでになく、あのあたたかい人たちともすっかり疎遠になった。感謝の言葉は、もう伝えるすべもない。生きるのはちっとも上手くならないが、ときどき左上の角をマッキーで赤く染めたたくさんの宣伝ハガキを思い出す。あの印をもらったことで、生き延びることができている。

●エッセイのおまけとして、「かつての自分に手渡してあげたい本」を3冊ご紹介します。

頭木弘樹『絶望名言』(飛鳥新社)
カフカにゲーテ、太宰治など古今東西の文豪たちが絶望のなかで書いた「絶望名言」をまとめた本。「明けない夜はない」などという前向きな言葉がつらいほど心折れた夜、手に取りたくなる1冊です。13年間にもわたる闘病生活を過ごされた頭木弘樹さんだからこそ、まとめられた本なのだと思います。

漫画・文 Jam/監修 名越康文『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』(サンクチュアリ出版)
かわいい猫ちゃんの4コマ漫画でふわりと心緩めつつ、心のバイアスを解きほぐしていける本。普段なら容易に想像できることでも、心折れそうなときは余裕が持てないもの。ゆっくりと、平常運転に戻していけるはず。

南直哉『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』(アスコム)
「生きる意味なんて、見つけなくていい」という言葉に思わずドキリ。禅僧であるという南さんのお言葉に、自分を追い詰めていたのはいつも自分だったのだな……などと思わされます。

 

関連書籍

真木あかり『真木あかりの“使う”星占い 2024年下半期』

ウェブや女性誌で大注目の占い師、真木あかり先生による「12星座別あなたの運勢」が、「真木あかりの“使う”星占い」としてリニューアル。 2024年下半期(7月~12月)の本作品では、ウェブマガジン「幻冬舎plus」で公開されている全体運に加えて、「仕事運」「恋愛運」「健康運」「金運」などカテゴリー別の占いをお楽しみいただけます。 購入者特典として、占いを役立てていただくための5枚の「書き込みシート」がついています(完全版のみの特典です)。

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