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パーティーが終わって、中年が始まる

2024.09.17 公開 ポスト

「なぜ、みんなパートナーがいるのだろう?」40代独身男性が思う“恋”と“性”pha

最新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』が話題の元「日本一の有名なニート」phaさん。シェアハウスで過ごした20代、30代を経て一人で暮らす40代。あらためて考える誰かと親密な関係になること。本書より抜粋してお届けします。
また、9月28日には、「phaさんはなぜ自分のことを正直に書けるのか?」講座を開催します。ご参加お待ちしています。

ひとりでいるのに慣れすぎた

シェアハウスをやっているとき、取材などで「新しい家族のかたち」みたいに紹介されることが多かったのだけど、ずっと、そういうのじゃないのにな、と思っていた。訂正するのも面倒だったので、そこまで強く反発したわけではないけれど。

みんな、家族という概念がとても好きみたいだ。自分は家族というものに思い入れが全くない。だから、そんなに深くつながらないけれど、なんとなく人が周りにいるシェアハウスくらいがちょうどよかったのだ。恋愛をしても、相手と近い関係になりそうになると、なんだか窮屈さを感じて、すぐに逃げ出してしまった。そうやって、今までほとんどひとりで過ごしてきた。

世の中を見回すと、なんだかみんな普通にパートナーがいてびっくりする。生きるのが苦手だ、という内容の文章を共感しながら読んでいたら、途中でパートナーがいることが明らかになって、「なんだ、そっち側の人だったのか」と疎外感を覚えることがよくある。やっぱりみんな、そうなのか。

友達がパートナーと一緒にいるところに居合わせると、いつもと違う面を見ることができて面白い。みんな、他の人と話すときよりも親密でざっくばらんな「身内モード」で話しているように見える。親しげなだけではなく、ちょっと当たりがキツかったりすることもある。

この「身内モード」が、自分の中には存在しないのかもしれない。自分は誰かと交際をしても、特別に親密にも、当たりがキツくもならなかった。相手から見ると、そういうところがいまいち安心しきれないというか、不満を持たれていたのではないだろうか。

「身内モード」を自分の中に持っていて、そのモードを発揮できる相手を見つけている人をうらやましく思うけれど、それは宗教に入っている人を見て、信仰があると心が安定しそうでいいなとうらやましく思うのと同じ感じで、いいなと思っても、そもそも自分の中に存在しないモードを真似することはできないのだ。

このあいだ、荻上チキさんが書いた『もう一人、誰かを好きになったとき─ポリアモリーのリアル─』(新潮社)という、ポリアモリーについての本のトークイベントに参加した。

ポリアモリーというのは、直訳すると「複数愛」となる言葉で、複数の相手と性愛関係を持つ交際形態のことを指す。

一般的には、性愛の関係というのは一対一であることが普通とされていて(これをモノアモリーと呼ぶ)、複数の相手を性愛の対象として持つという行為は、「浮気性」とか「不誠実」とか呼ばれてよくないものとされることが多い。

しかし、世の中には一対一の関係にどうしても窮屈さを覚えるタイプの人がいる。それは誠実不誠実という問題ではなく、もともと持っている性質なのだと思う。

この社会では一対一のパートナー関係が普通ということになっているけれど、実際には、隠れてパートナー以外に性愛の相手を持っている人や、性風俗を利用している人などは一定の数いそうだし、ポリアモリー的性質を持っている人は意外と多いのではないだろうか。

ポリアモリーの人たちは、隠れて複数の関係を持つのではなく、オープンに全員の合意を取って関係を持つ、というかたちを理想としている。しかし、自分がポリアモリーでも、パートナーがポリアモリーではなかった場合は抵抗を受けることも多い。相手にパートナーがいて、そちらの同意を得られていない、ということもある。ポリアモリー的な関係性は世間的にもまだまだ理解を得にくく、叩かれることも多い。

イベントにはポリアモリーの人がたくさん参加していて、それぞれが抱えた複雑な事情を語っていて、その話を聞いて、ちょっと解放された気がした。昔から、一対一の関係をうまく結べない自分はなんてだめなんだろう、と思って気が重くなっていたのだけど、自分は単にそういうのを求めない性質だっただけなのかもしれない、と気が楽になったのだ。

正確には、自分はポリアモリーとは少し違うかも、というところもあった。ポリアモリーは複数の人と特別に親密で性的な関係を持つことだけど、自分は親密な関係というもの自体が苦手で、一人の相手と親密な関係を結ぶのもうまくできないし、ましてや複数と親密な関係を持つのはさらに苦手だ、と感じる。

独占欲というものが苦手なのかもしれない。他人に対して独占欲があまりないし、独占欲を向けられるのも苦手だ。好きな人が自分と仲良くしてくれないと寂しいけれど、自分と仲良くしてくれている上で他の人とも仲良くしているのは、特に何も感じない。自分と会っていない時間はその人のものだから好きにすればいい。特別に親密な関係、というものは独占欲と関係がありそうな気がしている。

本の中で紹介されていたスウィングというのがひょっとしたら自分に近いのでは、と思った。ポリアモリーが特別に親密な関係を複数と結ぶのに対して、スウィングは性的な関係は持つけれど特別に親密な関係を持たない人をそう呼ぶらしい。ただ、スウィングというのは乱交パーティーやスワッピングをしている人を指すらしく、自分は全くそういうことをしているわけではない。ただ、相手に対して親密さを持つかどうかという点についてだけ、近いかもしれない、と思ったのだ。

自分だって性的な感情を持つ相手に対しては、性欲だけではなくそれなりに親密さを感じているけれど、他の人たちと比べると、自分が感じている親密さは友達に対するものとそれほど変わらなくて、質的な違い、モードの違いのようなものがあまりないような気がする。そのことについて後ろめたさをずっと持っていた。

ポリアモリーといってもいろんなタイプがあって、本の中では、ポリアモリーだけどアセクシャル(性的なことに興味があまりない)という人など、さまざまな細かなパターンが紹介されていた。こういったものは言葉で分類すること自体に限界があって、人間の性格と同じように、ひとりひとりそれぞれ独自の性質がある、という種類のものなのだろう。

特別に親密な関係を持つということがよくわからないけれど性欲はあって、その二つの乖離に悩んできたのが今までの人生だったのだけど、四十代になって少し状況が変わってきた。

性欲は結構減ったと思うけど、ゼロになったわけではない。ただ、他人と性的な関係を持つことへのハードルがかなり上がった。具体的には、人の前で裸になるのが恥ずかしいと感じるようになった。こんな見苦しい中年の体なんて人に見せるものじゃない、と思ってしまう。昔は聞かれもしないのに自分から性的な話をしたりしていたけれど、今は、四十代の性の話なんて誰も聞きたくないよな、と思って、語ることも少なくなった。

性はやはり、若者のものなのだろう。若者が誰かとセックスをした話をネットで見かけると、いいぞ、もっとやりまくれ、とこっそり応援している。

若い頃は、四十代の性の話なんて聞きたくない、と思っていた。想像したくもなかった。それと同じように、四十代の今は、六十代や七十代の性の話なんて聞きたくない、という気持ちがあるのだけど、実際には六十代や七十代でも完全に性から離れることはできなそうな感じもあるので、見たくない、と思って蓋をするのではなく、老境の性について今から受け入れる準備をしておいたほうがいいのかもしれない。

普段の生活の中で全般的に気力がなくなってきているのも、ひょっとしたら性欲の低下と関係しているのかもしれない、と、ときどき思う。

昔から、ネットで文章を書いたり、人を集めるイベントを企画したりしていたのは、必ずしもそれだけではないのだけど、そのことによって異性と知り合って、仲良くなりたい、ちやほやされたい、という下心がある程度のモチベーションになっていた。

という話をすると、男性は大体同意してくれるのだけど、女性には「それは別の話」「仕事がバリバリできる女はモテない」と言われることが多い。そうなのか。男性は仕事の評価がモテにつながりうるけれど、女性は特につながらない、ということか。確かに一般的にはそうなのだろう。

自分が異性を好きになるときは、相手の作る作品とか、成し遂げた仕事が素晴らしいから、という憧れの気持ちで好きになることがよくあった。自分に向けられている笑顔よりも、何かに集中しているときの横顔を、一番美しいと思っていた。でも、今思うとそれは不純な好意だったのかもしれない。

自分にはない能力を持っている人を好きになるのは、親しくなることでその人の良さを自分に取り入れようとしているのだ。それは純粋にその人自身に好意を持っているのではないのではないだろうか。何か身につけたいものがあるならば努力をして身につけるべきで、そこで恋愛感情を持ってくるのは筋違いというか、ごまかしだろう。

でも、そんなことを言い出すと、純粋な好意って何なんだろう、という話になってくる。そんなものは存在するのだろうか。恋愛感情と、妄想や羨望や無力感やトラウマはいつも入り交じっていて、みんな何かよくわからない不純な動機をいろいろ持ちながら、人を好きになったり関係を持ったりしているのではないか、と思う。

橋本治が『失楽園の向こう側』(小学館文庫)という本で書いていた「性欲は羅針盤だ」という話が好きだ。

人は何か人生に行き詰まりを感じているとき、その状況から自分を救い出してくれそうな存在に恋をする、というのだ。現状を変えるというのは大体の場合すごく面倒なので、理屈だけではなかなか状況を打破できない。そんなとき、性欲という理屈では割り切れないエネルギーが、変化したい方向へと自分を後押ししてくれる。

そして十代の頃に性欲が盛んなのは、それが生物としての仕組みでもあるけれどそれだけではなく、十代の頃は人生の行く道が全く定まっていないからだ。何もわからないままに未来を模索するしかない時期だから、性欲にもっとも振り回されてしまう、というのだ。

それならば特に未来を模索していない、自分の先行きはだいたいこんな感じだ、とわかってしまった四十代で、性欲が衰えてくるのは当然か、と納得している。

恋が多い人は、恋愛以外でも面白そうなことをたくさんしているような気がする。恋というのは、単に性的対象に対する欲望なのではなく、すべての未知なものに対するときめきやワクワク感の基本となる感情なのかもしれない。

そう考えると、恋や性に振り回されるのはもう疲れたという気持ちもあるけれど、人生を楽しむためには、自分の中にあるときめきの種火みたいなものを大切にしていったほうがいいのだろうか。

家族という概念に思い入れがない自分にとっては、家族や結婚というのは、単に財産をどう配分するかという法的な取り決めに過ぎない。唯一自分に関係がありそうな部分としては、自分が死んだときにどう死後の処理をするか、というところだろうか。大抵のことは自分でやるか友人に頼むかでなんとかなりそうだけど、死後の処理だけは難しい。

しかし、未婚率が上昇し続けていて、かつ高齢化が進みつつある今、自分が高齢者になる二十年後や三十年後には、家族のいない独居老人がさらに増えているだろう。だからその頃には、独居老人が生きるためのいろいろな仕組みが増えているんじゃないかと想像している。例えば、高齢者でも借りやすい賃貸住宅とか、孤独死したらすぐに見つけてもらえるサービスとか。

バスの車内とかに「身寄りのない方でも安心! 終活はうちにおまかせ!」みたいな業者の広告が出まくるようになるのかもしれない。その光景を想像すると「老いた国だな……」という気分になるけれど、自分が老いて弱っていくのと並行してこの国も老いて弱っていくのだと思うとそんなに悪い気分ではない。

このあいだニュースで見たのだけど、人が死んだときに火葬費用を出す人がいなくて遺骨の引き取り手もいない場合は、自治体が公費で火葬して共同の納骨堂に納骨するらしい。そういった「無縁遺骨」の数は年々増えているそうだ。

その中には、無縁ではなく身寄りの人は判明しているけれど、遺族が遺骨の引き取りを拒否している、というケースも多いらしい。仲が悪くて絶縁していたり、もしくは遺族にも火葬や埋葬の費用がない、という事情なのだろう。

そのニュースを僕は、家族に頼らなくてもちゃんと死ねるんだ、という希望として見た。今まで家族で処理していたものを家族で受け止めきれなくなって、公的なサービスによって担われていく、という流れは止められないし、それはいい流れなのだと思う。

9月28日(土)「phaさんはなぜ自分のことを正直に書けるのか?」講座を開催!

phaさんのさりげないけど、惹きつける文章の秘密に迫ります。申し込み方法は幻冬舎カルチャーのページをご覧ください

関連書籍

pha『パーティーが終わって、中年が始まる』

定職に就かず、家族を持たず、 不完全なまま逃げ切りたい―― 元「日本一有名なニート」がまさかの中年クライシス!? 赤裸々に綴る衰退のスケッチ 「全てのものが移り変わっていってほしいと思っていた二十代や三十代の頃、怖いものは何もなかった。 何も大切なものはなくて、とにかく変化だけがほしかった。 この現状をぐちゃぐちゃにかき回してくれる何かをいつも求めていた。 喪失感さえ、娯楽のひとつとしか思っていなかった。」――本文より 若さの魔法がとけて、一回きりの人生の本番と向き合う日々を綴る。

pha『どこでもいいからどこかへ行きたい』

家にいるのが嫌になったら、突発的に旅に出 る。カプセルホテル、サウナ、ネットカフ ェ、泊まる場所はどこでもいい。時間のかか る高速バスと鈍行列車が好きだ。名物は食べ ない。景色も見ない。でも、場所が変われば、 考え方が変わる。気持ちが変わる。大事なの は、日常から距離をとること。生き方をラク にする、ふらふらと移動することのススメ。

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パーティーが終わって、中年が始まる

元「日本一有名なニート」phaさんによるエッセイ『パーティーが終わって、中年が始まる』について

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pha

1978年生まれ。大阪府出身。京都大学卒業後、就職したものの働きたくなくて社内ニートになる。2007年に退職して上京。定職につかず「ニート」を名乗りつつ、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作る。2019年にシェアハウスを解散して、一人暮らしに。著書は『持たない幸福論』『がんばらない練習』『どこでもいいからどこかへ行きたい』(いずれも幻冬舎)、『しないことリスト』(大和書房)、『人生の土台となる読書 』(ダイヤモンド社)など多数。現在は、文筆活動を行いながら、東京・高円寺の書店、蟹ブックスでスタッフとして勤務している。Xアカウント:@pha

 

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