「突然失礼いたします。私は昨年まであなたの娘であるミドリさんと真剣にお付き合いをさせていただいていた者です。二人納得の上で結婚を前提に関係を深めておりましたが、私にはどうしても結婚に踏み切れない事情ができてしまいました。娘さんが下記リンクのような仕事をされていることを知り、そのような方と家族になれば私の家族を傷つけ、侮辱することになると考えたからです。詳しくはリンクおよび添付の動画をご覧になってください。臆病な私のせいで婚約を破棄してしまい申し訳ありませんが、私にも大切な両親や兄弟がおりますのでどうかご理解いただければ幸いです。」
これは私が新聞社に入って一年目の終わりの頃、サバティカルで日本を離れていた両親が、ちょうどパリから帰国した直後に受信したメールで、リンクはアダルトビデオのサイトで私のAV嬢時代の芸名を検索した結果画面、添付されていたのは私が出演した中でもなかなか内容のえぐい緊縛されながら尿をかけられたり蝋燭をかけられたりする作品の短い切り取り動画だった。
メールは無記名で、アドレスも捨てアドレスのようだったが、私にも両親にも送信元が誰なのかはすぐわかった。脇があまいことに、アドレスに使われていた数字は彼の生年月日で、英文字の羅列は彼の愛飲していた酒の銘柄だった。
このメールは今から読み返しても何かと気に入らないのだけど、その気に入らなさは実は結構複雑な構造をしている。メールを送られた当初、私にとって問題だったのは、すでに引退して何年かたっているAV稼業について、なんとか親バレせずにやり過ごしたにもかかわらずこのタイミングでリベンジ的にバラされた、という事実であったし、メールを送りつけられたうちの親にとっても興味関心はリンクと添付動画で、他のことはわりとどうでもいいことであった。
しかしその約五年後に週刊誌報道によって親どころか全国的に赤っ恥な過去の姿を晒されたため、元AV嬢どうのという肩書は割とどうでもよくなっている今の私には、じわじわと他の点が気になってくる。
このメールを表面的に解読すると、主旨は婚約を破棄するお詫びであって、ポルノ出演を添付動画までつけてバラすのはその理由を説明するため。そしてメールの前提は私と送り主が結婚を前提に交際していたという事実らしい。
ジャストアモーメント。
当時二十六歳の私は結婚願望など当然ゼロで、むしろどんな男と付き合っても、「こいつもいいけど世の中にはきっともっといい男が」と心のどこかで思っているタイプの、浅はかで若くて夢見がちな女だった。要は誰とも結婚を前提になど付き合う気はさらさらない。二十代で結婚して出産とかしていた一部の友達を、なんて奇特な人だろうと尊敬することこそあれ、自分に置き換えたら絶対ムリとしか思っていなかった。
そしてこのメールの主とは、大学院生の終わりの頃はそれなりにラブラブと付き合っていたものの、私が新聞社に入って忙しくなると露骨に機嫌が悪いことが増え、私が休日に友人と遊びに行くのも嫌な顔をされるなど悪趣味な束縛を重ねられたあたりでかなり気持ちが冷め、何度か別れ話をしても納得してくれないので、年の瀬の平日に彼が仕事に行っている間、私は会社を遅刻してまで赤帽を使って夜逃げのように別れた仲であった。
その時すでに新しい彼氏を作っていたのは私の愛嬌って感じではあるのだけど、とにかく別れ話をするたびにベランダから飛び降りる真似をされるのにも、仕事で深夜0時を過ぎて帰宅すると決まって部屋をダブルロックされて新入社員だというのに漫喫かサウナに泊まるのにも嫌気がさしていた私は強硬手段で縁を切った。
しばらくは戻って来てくれ、やり直そうというひっきりなしの連絡がきていたのだけど、次第にそれが「婚約破棄するのであれば慰謝料よこせ」とか「お前のせいで会社に行けない上に睡眠薬が手放せなくなったから傷害罪で訴える」とかいう連絡に変わっていく。それでも無視しているとネットメールにハッキングされて、新しい男の存在などがバレた。両親へのメールはその末の犯行だったわけである。
しかもAV出演をバラすという本来の目的に、ちゃっかり自分は結婚を約束していた上に自分から断ったという虚偽の事実を作り上げ、挙句そのことをお詫びするという、なんか悪者になりきっていない立場から送り付けてきたあたり、今から振り返ると非常に気に入らない態度なわけである。
ちなみにその後、別れることには納得した、というかなんか自分から別れましたみたいなことになっているということで、もう復縁する気はゼロになってくれたと踏んだ私は文句を言いたいのと、赤帽に乗せきることのできなかった荷物を返して欲しいのとで彼に連絡をした。すると思いつく限りの最大のリベンジをし終えたという気持ちからか、かなり覇気がなくなった彼は荷物はちゃんと返すとメールで言ってくれて、指定の日時に彼の家の前に取りに行くことに。
家の前には山のような洋服だけが積まれていたので、本当は本とか古いパソコンとかブランド物の靴とかを返して欲しかったという気持ちを抑えて新しい男とその友人に頼んで服を引き上げて帰ってきてみると、服にはすべてハサミで大きな切り込みが入れてあったのでした。私は切り刻まれた布のゴミを拾いにわざわざ休日を潰して車で取りに行ったことになるわけで、これもまた非常に気に入らない。
正直、二十六歳の私にとって、たかが気持ちが冷めて男と別れた、というだけで、ここまで人に恨まれるというのが全く理解不能だった。恋なんて言わばエゴとエゴのシーソーゲーム、その遊びに飽きたら次のゲームへ向かっていくのが普通じゃん。そして未だに耳に残る、繰り返した別れ話に対する彼の反論を思い出しても、やっぱり納得いかないのは、彼の怒りの根源がどうやら「結婚の予定を狂わされた」ということだからだ。
少なくとも二十代の私にとっても、ほとんどすべての私の周囲の女子たちにとっても結婚というのはかなり遠い概念で、キムタクと結婚したぁい的なぼやきをすることはあっても、別に切羽詰まった問題であったことはなかった。
七つ年上の彼は、「今年中に結婚して子供の入学式をせめて四十くらいで迎えたかったのに」とか「沖縄で結婚を口にした時にお前は拒否しなかった」とかいう恨み言を繰り返し、彼の人生計画をめちゃくちゃにした戦犯として私を責めた。沖縄の安いハンバーガー屋でたしかに誕生日プレゼントの指輪をもらった気はするが、いつか結婚とかすること考える? という質問に、「別に非婚主義者ってわけじゃない」以上の返答をした記憶はなかった。
そのあたりの誤解というかディス・コミュニケーションがお互いの不幸の始まりだったわけだけど、あくまで彼が結婚、結婚と連発しだしたのは別れ話が浮上してからだったのは間違いない。付き合うとか同棲とか、そういうものの先に自然と結婚を意識するというのが、一部のアラサー男子にとって当たり前の思考だというのも、別れようとすると結婚を口にする者がいるというのも、わたしにとっては改めて恐怖でもあった。思えばあのあたりから、私の結婚への距離感は固まっていたような気もする。
そういえば昨年別れた男も、五年くらい前に私の頭をフライパンで叩いた男も、別れ話が本格化するにつれ、「今年の誕生日にプロポーズするつもりだった」「結婚を意識していたのに」と言葉を重ね、自分の名前だけ記入した婚姻届の写真を送り付けてくるなどの犯行に及んだのであった。
結婚は彼らにとって、去ろうとする女をつなぎ止めるための方便なのか、あるいはこちらの罪悪感とあちらの被害者意識を増幅させるためにある装置なのか、どちらなのかはよくわからないけれど、少なくとも私にとって長らく結婚は、すでにどうやって逃げ出そうかと考えている関係性において、その終わりかけの関係をよりこじらせる厄介なものでしかなく、幸福と結びつくものにはなり得なかったのである。
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瀬戸際の花嫁
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