『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が発売になりました。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを7週にわたって掲載します。
* * *
一
伊藤由美は鍋をコンロに載せる。蓋をして火を点けた。少し屈んで鍋の下の火を覗き込み、強さを確認する。それからキッチンカウンターの上の時計に目を向けた。
午後六時。
夫の雅規が戻るまで一時間ぐらいある。
まぁ、大丈夫だろう。
由美が雅規と結婚したのは二十五歳の時だった。それから二十八年間、専業主婦の由美が食事の支度をしてきた。支度にどれくらいの時間が掛かるかは予想出来る。
レタスを芯から一枚ずつ剥がしてザルに入れていく。
このレタスは由美が庭で作ったものだった。節約と趣味を兼ねて、小さな庭で野菜を育てている。
二十三年前にこの家を買ったばかりの頃には、花を育てていた。だが隣家が庭で野菜を栽培していたのを真似て、由美も食べられるものを植えるようになった。庭の広さは僅か六畳ほどなので、多くの野菜を収穫出来る訳ではない。だが味はまぁまぁだし、食費を幾分かは安く上げることが出来ているので、満足している。
棚からツナ缶を取り出した。次にその隣の食器棚に手を伸ばそうとして、その手が止まった。
ガラス扉に自分の顔がぼんやり映っている。
老けた──。
はっきり映っていなくても分かる。
そうではあっても、老けたとわざわざ指摘しなくたっていいのに。
由美は今日、友人の江都子とランチをした。五年ぶりの再会だった。江都子はイタリアンレストランの席に着くなり言ったのだ。「老けたわね」と。
ムッとしたがぐっと我慢して「あら、そう?」と軽く流した。
そんな残酷なことを言った江都子は、同い年なのに溌溂としていて、実際の年齢より十ほど若く見えた。大学で歴史学の教授をしている江都子は、毎日他人と接しているのだろうから、老けるのが遅いのかも。だからって、メイクぐらいしたら? なんて余計なお世話なのよ。してたのに。オールインワンを塗っただけだけど。
一つため息を吐ついてから食器を取り出した。
料理が完成したのは午後七時だった。
直後に雅規が帰宅した。
部屋着に着替えた雅規がダイニングテーブルに着くと、無言で箸を摑む。
由美は声を掛ける。「フライの中にはチーズが入っているの。熱いから気を付けて」
「ああ」と雅規が答える。
雅規はチーズが好きだった。チーズを使った料理はまず残さない。好きなのはとろけるもの。だから今日のように中に入れたり、上に載せたりして、チーズを使ったメニューにすることが多かった。
由美はレタスとツナのサラダに箸を伸ばした。口に運ぶ。
シャキシャキとした食感を楽しんでいると、点けっ放しのテレビから、W線が全線で運行停止中だと言う、アナウンサーの声が聞こえてきた。
雅規が箸を止めてテレビ画面に目を向けた。雅規が勤める鉄道会社の路線ではなくても気になるのか、じっとテレビを見つめる。
由美より一つ年上の雅規は、こことは違う鉄道会社で働いていた。その中の不動産部門にいると聞いているが、詳しい仕事内容は分からない。雅規が自分の仕事について語らないから。
聞けば教えてくれるのだろうが、それほど興味がある訳でもないので、知らないままにしている。
雅規はお見合いの席でも、自分のことを多くは語らなかった。ただ由美の向かいで静かに座っていた。なんとかしなくてはと考えた仲人が、会話をさせようと何度も質問をした。雅規はそれらに答えるのだが、あまりに簡潔なために話が弾まなくて、仲人を困らせた。
当時、由美はカレにフラれた直後だった。そのカレはよく喋って騒がしい、ガチャガチャした人だった。交際していた二年の間には浮気されたり、喧嘩したりで、哀しい思いをたくさんしていた。会話は弾まなくてもこういう物静かな人となら、穏やかな毎日を過ごせるだろうと判断して、雅規との結婚を決めた。
その通りになった。毎日穏やかに過ごしている。会話は長くは続かないけれど。
アナウンサーが他の事件について話し出すと、雅規は興味を失ったのかテレビから目を離した。そしてフライを箸で摘つまみ上げて口に運んだ。
由美は尋ねた。「ベーコンのチーズ巻きフライ、どう? 美味しい?」
「ああ」と雅規が答えた。
まったく。なにを聞いても「ああ」なんだから。いつも話が一方通行なのはちょっと寂しいけれど、仕事で疲れているんだから、しょうがない。少しぐらい寂しくても我慢しなくちゃね。
由美は「良かったわ」と言うと、キャベツのコンソメスープにスプーンを差し入れた。
二
消えた。
由美は鏡を覗き込む。
年々大きく濃くなっていたシミが消えている。
いや、よくよく見ればあるけれど目立たなくなっていた。
由美は背後に立つメイク講師、長戸に顔を向けた。「目立たなくなりました。これはもう消えたってことでいいですよね」
長戸が頷く。「オレンジ色系のコンシーラーは、一つ持っておくといいですよ」
「分かりました」と答えた。
由美は江都子から老けたと言われたのが忘れられず、一人娘の遥に電話をした。遥は夫と子どもの三人で隣県に暮らしている。遥に愚痴ると、大人女子にメイクレッスンをしてくれる教室を調べてくれた。今日はその教室に来ている。
八畳ほどの部屋の中央にテーブルがあり、その上には大きな鏡が置かれている。そのテーブルには、由美が自宅から持って来たメイク用品も並んでいて、その右には長戸が用意したものがあった。
由美と同世代に見える長戸が「次はアイメイクにいきましょうか」と言うと紙をテーブルに置いた。
そこには目を閉じている女性の顔が描かれている。
長戸が、由美が持ち込んだアイシャドウパレットの蓋を開けた。付属のチップを取り、焦げ茶色のアイシャドウを擦こすり付ける。そのチップをイラストの女性の右の瞼まぶたに置いた。
長戸が言う。「最初にチップを中央に置いて、こういう風に目尻に伸ばしていく。こういうやり方は昭和で終わりました。令和では」チップを左の瞼に置いた。「最初に中央に置くのは一緒なんですが、ワイパーみたいに左右に均等に振り伸ばす感じ。それから上に広げていくんです。縦を意識して塗るようにしてください」
やっぱり今日ここに習いに来て正解だったと由美は思う。こんなの教えて貰わなきゃ分からない。
若い頃はちゃんと化粧をして、製紙会社に毎日出社していた。シミや皺はなかったので、もっぱら目を大きく見せることに力を注いだ。自分が美人じゃないと分かっていた。それでも目がもう少し大きく見せることが出来たら、ちょっとましになるように思って。どれだけ頑張っても、褒められたことなど一度もなかったけれど。いや、あった。一度だけ。
由美の結婚式でのことだった。化粧を施したのは結婚式場のメイクさんだったが、ウエディングドレス姿の由美を見た雅規が、感動したような顔で綺麗だよと言ったのだ。たくさんの言葉を発しない人が零した、そのひと言は嬉しかった。
その後妊娠し体重が増えた。出産後も体重は戻らず、結婚式の時より十キロ増えた。年齢を重ねるうちにシミと皺も増えた。くすみも弛みも酷い。それでもメイクをしてましになりたい。同い年の友人から老けたなんて言われない程度に。
メイクレッスンは九十分で終わった。濃く充実した九十分だった。
帰路の電車の中では、何度もスマホのインカメラで自分の顔を確認した。普段より二割増しで良くなっていた。冷静に見積もっても。プロってさすが。
I駅で降りた。
南口から高架線に沿って坂道を下る。二つ目の角を左に折れた。そして小さな橋を渡る。
中古車販売店の前では、ツナギ姿の男性が洗車をしていた。
三月の穏やかな陽が差していて、歩いていて気持ちいい。
スマホが鳴りバッグから取り出した。
雅規から届いたLINEには〈帰りが遅くなる。夕食は済ませて帰る〉と書いてあった。
LINEでも雅規は簡潔だった。
由美は足を止めて了解と返信してから、バッグにスマホを戻す。
仕事が立て込んでいるようで、雅規の帰りが遅くなる日が増えている。
五分ほどで我が家に到着した。
家の中に入るとすぐにスマホで自撮りを始めた。いろんな角度で何枚も撮る。
こんなに自分の顔写真を一気に撮るのは初めてかも。目が大きくなった分、顔が小さくなった気がして嬉しい。
満足するまで写真を撮った後は、自分用の夕食の支度に取り掛かった。簡単なものにして早々に夕食を終えると、ソファに座った。
雅規の帰りが遅い日には、先に入浴することが多いのだけれど、今日はテレビを見ながら戻りを待つつもりだ。二割増しで良くなった顔を見せたいから。
午後十一時を回った頃だった。門扉を開ける音が聞こえてきた。
由美は立ち上がり、リビングドアを開けて廊下を進んだ。
三和土で靴を脱いでいる雅規に声を掛ける。「お帰りなさい」
「ただいま」と答えた雅規は、こんな時間まで残業していたのに疲れている様子はない。
由美は言う。「お風呂、すぐに入れるわよ」
「ああ」と返事をした雅規が歩き出す。
その背中に向けて言った。「ねぇ、なにか気が付かない?」
雅規が足を止めて振り返った。
少しの間由美を見つめてから言った。「髪を切ったんだね。いいと思うよ」
「えっ」
雅規は廊下を進み階段に足を掛ける。そうして上っていった。
由美の高揚感が一瞬で消えた。
地獄の底で見たものは
桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』の試し読みをお届けします。