『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が発売になりました。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
三
フー。
ひとつ息を吐き出し吊り革に摑まる。
午後三時の車内は結構混んでいた。大きな揃いのスポーツバッグを持った女子高生四人が、ドアの前に陣取っている。
由美はデパートからの帰りだった。知人に贈る品を選びにデパートに行ったら、改装前のセールをやっていた。ついあれこれと見て回り、すっかり疲れてしまった。
由美は前のシートに座っている女性に視線を向けた。
六十代ぐらいのその女性は、真っ赤なスプリングコートを着ている。眉を太く描き唇を真っ赤に塗っていた。
姉のさち子もこの人のように派手な格好をする。自分の意見をしっかり言い、好きなものを着て、自由に振る舞うさち子と比べられるのが昔から嫌だった。実家で一緒に暮らしていた頃は、さち子の気まぐれと我が儘に翻弄される毎日だった。だが喧嘩にはならなかった。争うことが苦手な由美は、いつも我慢することを選んだからだ。
さち子がフランスで暮らすようになり、物理的な距離を有り難く思っていたが、母の幸恵が認知症になると、そうも言っていられなくなった。介護を由美がすべて背負うことになったのだ。さち子はフランスにいるのだから、しょうがないと思うようにしていた。
幸恵が亡くなるとさち子はようやく帰国した。そして遺産の半分を受け取る書類に、当然のような顔でサインをした。弁護士は由美を気の毒に思ったのか言った。「私からお姉さんに、介護を一人でされた妹さんに、遺産の中から少し渡されてはどうかと、提案してみましょうか」と。由美は首を左右に振った。不公平だとの思いはあったが由美は言った。「姉と遺産で争いたくありません。私が我慢すれば丸く収まるんですから、これでいいんです」と。
そのさち子は父親の豊隆に似て、二重の大きな目をしている。
由美が自宅に戻ったのは午後四時だった。
すっかり疲れてしまって、ソファにだらりと座りテレビを点ける。そのまま根が生えたように、ずっと座ってテレビを見続けた。午後六時になると夕食の支度を始めた。
午後七時半に門扉を開ける音が聞こえてきた。
由美は手を止めて出迎えるために玄関に向かう。
雅規は三和土に直立不動の姿勢で立っていた。
由美は「お帰りなさい」と声を掛けた。
雅規が緊張したような顔をしている。
「どうしたの?」と由美は尋ねた。
白い壁に目を向けてから、その視線を由美に移した。「話がある。離婚して欲しい」
「は?」
「好きな人がいるんだ。その人と一緒になりたい。だから離婚して欲しい」
頭が真っ白になってなにも言葉が出てこない。
雅規が続ける。「今夜、家を出るよ。今日は服の替えを取りに来たんだ。財産をどう分けるかとか、そういうのは弁護士を介して決めていこう。以上だ」
雅規は靴を脱ぎ廊下に上がった。廊下を進み階段を上っていく。
今の……なに? 今、私は離婚を宣言された? 好きな人がいる? それって……浮気をしていたってこと? いつからよ。そんなの……以上って、なによ、それ。
由美は呆然とその場に立ち尽くした。
四
こんなに若いの?
由美は絶句する。
雅規が再婚したい相手はまだ二十代にしか見えない。それに美人だった。
由美は胸が痛くなって、スマホをタップして動画を止めた。
これは遥から送って貰った動画だった。雅規は先週、遥一家を中華料理店に招待し、その席で交際中の人だと平良芽衣を紹介したという。
そうした会食があったことを、今日になって由美は知った。遥からのLINEで教えて貰ったのだ。遥はもし見たいならば会食した時の動画を送るが、どうするかと言ってきた。由美は一瞬も迷わず送ってと返信した。こんなに傷付くとは思わずに。
雅規は二週間前に家を出た。翌日には雅規の代理人だと称する弁護士から電話が入った。由美も弁護士を立てることにした。今は二人の弁護士を介して、財産分与の調整をしている段階だ。
まだそんな状態だというのに、雅規が遥に芽衣を紹介するなんて、どうかしてる。離婚の成立を待つ気もないなんて。
由美は深呼吸をしてから、動画の再生ボタンをタップした。
カメラは天井から下がるシャンデリアを映す。高級な店の個室のようで、座席の背後のチェストには大きな壺が置いてあった。
動画の中の芽衣が「そうだ。晴琉君にお土産あるんだ」と由美の孫の名前を口にした。
そして立ち上がり背後の壁際に並ぶ椅子の前まで進んだ。
そこには大きな袋が二つ置かれている。
芽衣はその右の袋の中に手を入れてごそごそと探る。
そうして小さな袋を取り出すと席に戻った。
芽衣が「これ、晴琉君に。ディズニーランドのお土産」と言って丸テーブル越しに渡した。
由美は目を剥く。
もしかして二人はディズニーランド帰りなの? 雅規はディズニーランドが苦手だと言っていたのに。遥を連れて何度か行った時には、どうも僕は落ち着かないと言って、娘のために楽しそうなフリさえしなかった癖に。若い女から行きたいと言われたの? 若い女と行ったら楽しかった? それで大量の土産を買わされたの? あぁ、腹が立つ。
男性の配膳係が画面の中に入ってきた。
大皿が丸テーブルに置かれ、カメラはその料理を捉える。
その料理越しに雅規と芽衣の二人が映っている。
雅規が丸テーブルに載っていた小皿を二枚取った。そして一枚を芽衣の前に置き、そこに醤油を注してやった。
なによそれ。思わず声が出る。そんなこと、私には一度もしてくれたことなんかなかったのに。結婚前のデートの時だって、醤油差しを私の前に置いてくれたことはあっても、小皿に注すなんてしたことなかったじゃない。それに、なんでそんな幸せそうな顔で笑ってんのよ。そんな顔……そんな顔、見たことない。物静かで喜怒哀楽を表に出さない人だったじゃない。それなのに、なんでそんなに楽しそうな顔をしてんのよ。
動画が終わり、由美はスマホを裏返してローテーブルに置いた。熱があるような気がして自分の額に手を置く。ソファの背もたれに背中を預けて天井を見上げた。
そうやって由美はしばらくの間じっとしていた。
手を下ろして隣にあった四角形のクッションを摑んだ。それを胸に抱えた。
二十八年間の結婚生活はなんだったんだろう。一緒に暮らすうちに互いへの信頼と思い遣りを、地層のようにどんどん積み重ねていくのだと思っていた。それはやがて強固な地盤になると。私たち夫婦の地盤は、もうしっかりしていると思っていたけれど違った。呆気なく壊れる程度の柔い土台の上にいた。
スマホを摑み遥に電話を掛ける。
すぐに遥が電話に出る。「見た?」
「見た」と答え「いくつなの?」と尋ねた。
「二十八だって」
「自分の娘より二つ上なだけなのね」
「そうだね」
「なにしている人なの?」
「漫画家だって言ってた」
「そんな人とどうやって知り合ったって?」
「漫画家なんだけどイラストも描くみたいで、イラストの仕事でパパと知り合ったって言ってた」
「で?」
「で、っていうのは?」
「どんな人だった? 私に気を遣わなくていいから正直に言って」
「どんな……んー。小さな声でボソボソと話す人だった。聞き取れなくて、えっ? って何回も聞き返しちゃった」
由美はもっと色々聞きたいのだが、聞きたくない気持ちもあって混乱して、言葉が出てこない。
遥が言う。「パパがどうしても会ってくれって言ったから会ったけど、私はママの味方だから。それは言っておく」
「有り難う」
「ママは怒っていいんだよ。怒られて当然のことをパパはしたんだから。ママはいつものように我慢しちゃダメだからね。ちゃんと弁護士さんに交渉して貰って、パパからたくさんお金を取ってよ。お金をちゃんと貰わなきゃ、ママがこれから苦労するんだからね」
由美は「分かってる」と言って電話を切った。
遥も弁護士と同じようなことを言うのね。
由美が依頼した女性弁護士は言った。長引かせるのが苦痛で、向こうの言う通りの金額でサインしてしまおうとする人もいますが、それは止めた方がいい。きちんと交渉して最大限の金額を勝ち取りましょう。これからの由美さんの生活が懸かっているんですからと。
励ましであったろう弁護士の言葉は、却って由美を不安にさせた。突き付けられた現実に由美の身体と心は震えた。
これから一人で生きていかなくてはいけない。働いて、稼いで、そのお金で暮らしていかなくては。出来るだろうか、私に。
由美は胸の中のクッションをぎゅっと強く抱きしめた。
地獄の底で見たものは
桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』の試し読みをお届けします。