『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が好評発売中です。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
七
由美は紙ナプキンの上に、カットしたチョコレートブラウニーを載せる。
それを半田真緒と大澤直子の前に置いた。「どうぞ」
二人が「有り難う」と声を揃えた。
真緒が言う。「ご馳走になってばっかりで、ごめんなさいね」
由美は「とんでもない」と自分の顔の前で手を左右に振った。「昨日、給料日だったでしょ。なんか嬉しくなっちゃって、スーパーでテンションが上がっちゃったみたいで。板チョコを見て、よし、作ろうって思ったの」
直子が「それ、分かるー」と言う。「私も昨日、給料日で気が大きくなっちゃって、これ、買っちゃった」とピンク色のTシャツを摘んだ。「派手だった?」
由美と真緒は似合っているし、派手じゃないとコメントした。
直子は満足そうな顔をする。「よかった。オバサンは顔がくすんでるんだから、これぐらいの明るい色のものを着た方がいいわよね」
由美と真緒はそうだ、その通りだと頷く。
由美が化粧品会社のコールセンターで働き始めて、二ヵ月になる。事務職に就くのは諦めて、サービス業で仕事を探してみた。初心者歓迎と謳い、手厚いサポートがあるというこの会社に応募し、採用された。一日八時間、週に五日、客からの電話注文を受けている。
同僚は由美と同世代の女性が多く、打ち解けられなかったら地獄になる職場環境だった。女子校育ちの由美は、そういうことを肌感覚で分かっていた。
初出勤の日、不安いっぱいで昼の休憩時間を迎えた。この休憩室の隅で固まった。どこのテーブルで食べれば、誰の不興も買わずに済むのかが分からなくて。すると真緒が「ねぇ、ここで一緒に食べない?」と声を掛けてくれた。「は、はい」と答えた時、声が裏返ってしまって恥ずかしい思いをした。
同世代の女性だらけの職場は、打ち解けられたら天国になる。真緒と直子のお蔭で、由美は天国で仕事をしていた。チョコレートブラウニーをご馳走するぐらい、なんてことはない。
しっかり者の真緒は由美より一つ年上で、夫と息子の三人暮らし。ここで働いて五年になるという。
一方の直子はバツイチの五十歳で、両親と娘と同居しているそうだ。由美と同じ乙女座で明るい性格の持ち主だ。
由美たちは休憩室の左奥にある、自動販売機の前のいつもの場所で昼食を摂っていた。
休憩室には横長のテーブルが、三つの列に分かれて設置されている。そこに四十人ほどの女性が着いている。
自作弁当とチョコレートブラウニーを食べ終えた由美は、一人自習室に向かった。
廊下を進み、トイレの向かいにある小さな部屋のドアを開ける。
三台あるデスクの中央に田た中なか夏希が着いていた。
夏希は由美の同期で、一週間の研修を他の二人と一緒に受けた。だがあまり喋ったことはない。四十代と思われる夏希は、群れるのが好きじゃありませんといった雰囲気を身に纏まとっていたので、話し掛け難にくかったから。休憩時間には一人でクロスワードパズルを解いていた。
由美は左端のデスクに着き、夏希に黙礼した。
ヘッドフォンを装着した状態で、夏希がお辞儀を返す。
夏希も来週行われるテストのために、自習室に来たのだろう。
来週、由美たち四人の同期はテストを受けることになっている。商品知識を調べる筆記テストと、タイピングのスピードと正確さを測るテストだ。普段の接客の会話はすべて録音されているので、その中から無作為に選ばれた十個のケースにも、点数が付けられると聞いている。このテストに合格出来れば時給が上がるので、是非ともパスしたいところだった。
由美はパソコンに自分のIDを入力してから、ヘッドフォンを装着した。タイピング練習のページを立ち上げた。
ヘッドフォンから女性の声が聞こえてくる。
「京都府京都市左京区──」
必死でキーボードを叩く。だが音声はどんどん進んでしまい追いつけない。
ブー。
低いブザー音と同時に、画面には未入力という赤い文字が出現した。
速過ぎよ。お客さんはもっと住所をゆっくり言ってくれるのに。郵便番号を入力すれば、自動で住所が出てくるソフトを使っているコールセンターもあるらしいけれど、ここは全部手入力しなくちゃいけないから大変。
エンターキーを押した。
すぐに「北海道札幌市」と声が聞こえてくる。
一生懸命指を動かす。画面を見た。
やだ。間違えてる。
急いでバックスペースキーを押して戻る。[北海道]と入力して顔を上げた。
その刹那、ブーと音がして画面に未入力の文字が出現した。
はぁ。
ちらっと夏希を盗み見た。物凄いスピードで指が動いている。
なんて速いんだろう。思わずヘッドフォンを外してガン見してしまう。
指だけ違う生き物みたい。
由美の視線に気付いた夏希がヘッドフォンを外した。
「なにか?」と夏希が聞く。
「あっ。ごめんなさい。じっと見ちゃって。物凄く速いから見惚れてたの。夏希さんなら絶対テスト合格ね。私は凄く遅いから不合格確実だわ」
「タッチタイピングじゃないんですか?」
「タッチタイピングって、指先を見ないで入力するっていうのだっけ? とんでもない。私は手元を見なければ入力出来ないわ」
「それだと目が指先と画面とを、頻繁に交互に見なくちゃいけなくなるから遅くなりますよ。入力のスピードを上げたいなら、タッチタイピングにした方がいいですよ。キーボードのアルファベットを消して、練習してみたらどうですか?」
「消す?」由美は聞き返す。
「はい。そこに答えがあると分かってるから、どうしても見ちゃうんですよ。だからキーボードに紙を貼ったりして、アルファベットの文字を隠すといいですよ。キーボードを見ても、そこに答えがないということを身体が覚えたら、自然と目が下を向かなくなって、タッチタイピングで入力するようになります」
「そうなの? でもそれは若い人の話でしょ。私はもう年だから。そういう難しいことに挑戦するのはちょっとね」
「あぁ」と夏希が言う。「由美さんはそういう人なんですね」
「……そういう人というのは?」
「言い訳に年齢を使う人。やらない、出来ないのを、年齢のせいにしておけば、自分を納得させ易いんですよね。母がそういう人で、もう年だからというフレーズをよく口にしていました。いいんじゃないですか。考え方は人それぞれですから」
「……」
夏希はヘッドフォンを装着すると、練習を再開した。
なんか……感じ悪い。いいじゃない。年なのは本当のことだもの。あなたは若いから分からないのよ。若いったって、私よりはってことだけど。この年齢になると、気持ちはあっても身体がついてこないってことがあるんだから。
由美もヘッドフォンを装着し、パソコン画面に目を向けた。
八
「いきます」と宣言した由美は、フライパンにもやしを投入する。
ジュッと音がする。すぐにパチパチと水分が弾ける音も加わった。
菜箸でもやしを掻き回して炒める。
その様子を、作業台に設置したスマホが撮影していた。
動画の投稿用に、夕食作りを撮影しているのだ。顔は出したくないので、手元付近だけが映るような角度にしている。
もやしを炒めながら言う。
「もやしは安いから、本当に助かるわよねぇ。ただ食べ応えが薄いというか、軽いでしょ。もやしの残念なところよね。食べても、食べたっていう満足感はなかなかって感じでしょ。だからね、今日はもやしを使って食べ応えのある料理にしようと思ってます。
今日はさぁ、テストだったの。職場のテストね。商品知識のテストはセーフだったんだけれど、タイピングのテストがダメだったの。不合格。ヘッドフォンから流れてくる声を聞いて、それをキーボードで入力するテストだったんだけれど、その声のスピードが物凄く速いの。全然ついていけなくて、0点取っちゃった。0点取ったの、生まれて初めて。凄くへこんでる。一ヵ月以内に追試を受けなくちゃいけないの。年取ってるんだから、指を速く動かせないのはしょうがないでしょ? なのに。
同期の人がね──その人、私より大分若いのよ。多分十歳か、もっとかも。その人が練習方法を教えてくれたんだけれど、それはちょっと難しそうだったの。だからね、私はもう年だから、そういうのは難しいと言ったのよ。そうしたら、その人、言い訳に年齢を使うんですねなんて言ったの。酷くない? やらない、出来ないのを年齢のせいにしてるって非難したのよ、私を。
もやしに火が入ったので、ちょっと火を弱めます。そうしたら、もやしを広げて、ここに生地を掛けます」
由美は小麦粉を水で溶いて作った生地をフライパンに流し入れる。
「この生地の厚みには注意してくださいね。ホットケーキみたいに厚くしちゃうと、もやしのシャキシャキ感が死んじゃうし、だからといって薄くし過ぎると、食べ応えが出ないから。厚みはねぇ、そうねぇ、ピザの生地ぐらいが丁度いいかな」
少しすると生地が乾燥して、小さな穴がいくつも開く。
フライ返しでひっくり返した。
美味しそうな焼き目が付いていた。
「そういえば」と由美は言い出す。「私が体調が悪くて、寝込んでしまった時があったのね。五年ぐらい前かなぁ。しんどくて、ベッドに横になっていたら、元夫が部屋に入って来たの。なにかと思ったら、ピザが一ピース載った皿を持ってて、出前頼んだんだ。食べるか? って言ったの。病人がピザを食べますかっていうのよねぇ。お粥とか、うどんでしょ、普通。ピザなんて、具合が悪い時に絶対食べちゃいけないものでしょう?
元夫にはさぁ、そういうところがあったのよ。まず自分が先なの。妻が食事を作ってくれない。だったら出前を頼もう。じゃ、ピザにしようって、こういう思考回路なの。体調不良の妻はなにが食べたいだろうかというところからスタートしないのよ。嫌な夫でしょ。元だけれど。
はい、今日も愚痴を言っている間に、出来ました。お皿に移します。ソースとマヨネーズをたっぷり掛けて、オカカを載せたら、完成でーす。安くて食べ応えのある『がっつりもやし』です」
撮影を一旦止めて、皿をテーブルに移した。それから皿の手前に白飯と味噌汁をセットして、完成した料理を撮った。
食事を終えると、撮った動画のチェックをした。難しい編集作業は出来ないので、動画に自分の顔が映り込んでいないと確認出来て、喋っている音が入っていたら、それでオッケーとしている。
動画をアップしてから入浴の準備を始めた。シャンプーを買い忘れていたことに気付いたが、それを買うために外出するのは嫌だったので、ボトルに水を入れて上下に激しく振って水増しした。最近、こんな風に専業主婦の頃には考えられなかったことを平気でしている自分に気付き、驚いてしまう。
入浴を済ませてパジャマに着替えた。
ベッドに腰掛けて、スマホを覗いた。
あっ。もうコメントが来てる。
由美の心は跳ねる。
⦅六十代のヒロイン⦆からのコメントを読む。
〈私もいつも年のせいにしちゃう。年齢のせいにすると楽だからね。でもそれだとなにも変わらない。そう思って、五十代で資格を取るための勉強を始めました。三回落ちたけど、四回目にやっと資格が取れて、今はとっても充実した毎日を送れています。だからyumiさんも年だからなんて言わずに、タイピングの練習を頑張って〉
五十代で資格……どんな資格なのかしら。⦅六十代のヒロイン⦆はこれまでも何回かコメントをくれた。由美と同じバツイチだと言っていたので、勝手に親近感をもっていた。
コメントの新着が入った。
〈タイピングは練習あるのみ。千本ノックならぬ千本タイピングで追試、頑張って。元夫さんのピザの話はウケました〉
なんか……頑張るって気持ちになってきたような……。
部屋を見回した。ゴミ箱に目が留まり、立ち上がった。
中から郵便受けに入っていたチラシを抜き出した。裏が白いものを選び、テーブルに広げて、皺を伸ばす。
それからスマホでキーボードの画像を検索する。それを見ながらチラシの裏に、ボールペンでキーボードを写し書く。自宅にキーボードがない由美は、手書きのこれで練習するしかない。
手書きのキーボードの上に指を置いた。そして練習を始める。
トントントン……。
ワンルームの部屋に、指がテーブルに当たる音が響いた。
地獄の底で見たものは
桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』の試し読みをお届けします。