『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が好評発売中です。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
九
由美はゆっくり息を吐いた。それからモニターの横に置いたペットボトルに目を向けた。
その緑茶のボトルには〈頑張れ〉と応援の言葉が書かれた付箋が貼られている。
今日も自習室で居残り練習をすると言った由美への、真緒と直子からの差し入れだった。
追試の日まであと十日。
もっとタイピングの速度を上げなくてはいけないし、ミスも減らさないと。
由美はヘッドフォンを装着し、キーボードを見下ろす。
キーには自宅から持って来た小さな紙が貼ってある。
夏希の助言を採用し、キーの文字を隠して練習することにした。その練習法が一番手っ取り早いだろうと、真緒と直子からも言われたからだった。
エンターキーを押そうとした時、人の気配を感じた。
顔を右に向けると、そこには夏希がいた。夏希は身体と顔を由美に向けて、隣席に座っている。
由美はヘッドフォンを外した。
夏希が言う。「これ、キーボードカバーです。これを使えば、毎回紙を貼ったり、外したりしなくて済みますよ」
「えっ? あぁ……そういうのがあるのね。マジックペンで黒く塗ってあるのは?」
「私が塗りました。透明なので、このままだと文字が透けて見えちゃいますから」
「……ということは、私のためにこれを買って、マジックペンで黒く塗ってくれたってこと?」
「はい」
「どうして私のためにそんなことを?」
夏希が困ったような顔をした。
今日も夏希の目にはしっかりと黒いアイラインが引かれている。筆タイプのアイライナーで書かれたと思われる線はブレることなく引かれ、目尻で少し上がっている。
そのせいでキツい印象を与える。
夏希が少ししてから口を開いた。「キーがベタベタしている感じがして、どうしてだろうと思っていたんです。そうしたら由美さんが自主練習をしている時に、紙を貼っていて、その両面テープの跡だろうと主任が話しているのを聞いて……頑張ってるんだって思って……頑張ってる人は応援したいなって思って」
この人、本当はいい人なのかも。言い方に問題はあったとしても。
由美は「有り難う。これ、いくらだった? 払います」と言って、足元のバッグに手を伸ばした。
「いいんです」
「そんな。悪いわよ。払うわ」
「本当にいいんです。差し入れだと思って受け取ってください」
「本当に? これ、すっごく高かったりしない? 大丈夫?」由美は尋ねた。
「そんなに高くないですから、大丈夫です」
「だったら頂きます。有り難う」
由美はキーボードのスイッチをオフにしてから、紙を剥がし始める。
そして「夏希さんにも応援して貰ってるんだから、頑張らなくちゃ」と言った。
夏希が隣席から手を伸ばして、キーから紙を剥がすのを手伝い出す。
由美は尋ねる。「夏希さんはここの前も、コールセンターで働いていたの?」
「はい。この前は、そうです」
「この前は、ということは、その前は違うってこと?」
「はい。大学を卒業した後は、小さな編集プロダクションで働いていました。でも母に介護が必要になって。そこの仕事との両立は難しかったので、時間の融通が利く、コールセンターで働くようになったんです。七年ぐらい働いていたんですけど、そこが倒産しちゃいまして、ここに」
「介護しながら働くのは大変よね」
「大変でしたね。去年亡くなりましたけど」
「それはご愁傷様です」由美は頭を下げた。
「有り難うございます」
「どんなお母様だったの?」
「どんな……努力をしない人でした」
由美は手を止めて「そう……なの?」と聞いた。
「はい。私が小学生の時に父が家を出て、愛人と暮らすようになったんです。母は毎月のように私を連れて、父と愛人が暮らしている家に行くんです。それで生活費をねだるんです。そうやって貰ったお金でしばらく暮らして、無くなると、また父のところにねだりに行くんです。私が行きたくないとごねると、お前が一緒の方がお金を多く出してくれるんだから、来てくれなきゃ困ると言うんです。母にどうして働かないのかと聞きました。もう年だから雇ってくれるところなんかないんだよと母は答えました。そう言い訳をして、働かず、テレビを見ているだけの人でした。母のことは大好きでしたけど、そういうところは大嫌いでした。父が亡くなって、母はようやく働き出しました。知り合いの会社で雇って貰ったんです。そこで経理を担当しているようだったので、簿記とか仕事に役立つような資格を取ったらと、勧めたんです。学費なら私が出すよって。でも母はもう年だから勉強なんて出来ないよと言ってました。そういう母の生き方というか、考え方は、私には歯痒かったです。結局そこの会社の業績が落ちて、母はリストラされました。それでビルの清掃の仕事を始めたんですが、一年後に認知症を発症しました」
「そうだったの」
由美はキーボードにカバーを被せた。キーを叩いてみる。
紙より柔らかい指触りをしばらく楽しむ。
由美は言った。「有り難う。本当に。私は……年だけれど、頑張ってみるわ」
夏希が小さく頷いた。
なんとなく……夏希が今、微笑んだような気がするのだけれど……口が微かに動いただけだから、もしかしたら勘違いかも……いや、やっぱり今のは微笑んだんじゃない? 多分。分かった。夏希はやっぱりいい人。
夏希が隣のパソコンと繋がっているヘッドフォンに手を伸ばした。「なんか、練習の邪魔をしちゃってすみませんでした。練習を続けてください。私も少しオペレーターの接客トークを聞いて勉強します」
「夏希さん、この前のテスト、最高得点で合格だったのに?」
「スーパーバイザーになれる昇格試験を受けるつもりなんです」
「そうなの。凄い。頑張ってね。きっと夏希さんなら大丈夫よ」
夏希が「頑張ります」と言い、「私も頑張る」と由美は告げる。
由美は「よしっ」と呟くと、ヘッドフォンを装着した。
十
どうしよう。緊張で指先が震えてる。落ち着かなくちゃ。
由美は〈合格〉と印刷された長さ十センチほどの消しゴムを握り締めた。
夏希がくれたものだった。
由美はこれから追試を一人で受ける。不合格だったのは由美だけだったから。
部屋には横長のテーブルが十個並んでいて、それぞれにパソコンが置かれている。
一番前の席に座った由美は、試験官である吉川主任が来るのを待っているところだった。
深呼吸をした後で、今度はうちわの柄を握る。
この応援うちわは真緒と直子の手作りで、片面には〈落ち着いて〉という文字のカッティングシートが貼られている。裏面には〈絶対合格〉とあった。そしてうちわの縁には金色のモールが付けられていた。
主任が現れた。
由美の心臓がピクンと跳ねる。
「お待たせしました」と主任は明るい声で言うと、「準備はいい?」と尋ねた。
「はい」と答えた由美の声は緊張で掠かすれていた。
主任が由美の隣に立った。そして由美の前のキーボードを使って数字を入力した。
するとモニターにタイピングテストという文字が出てきた。
主任が言う。「時間は二十分です。ヘッドフォンから聞こえてきた通りに入力してください。住所は漢字に変換すること。マンション名と、個人の名前は全角のカタカナで結構です。オッケーですか?」
「は、はい」
「緊張しているみたいね」
由美は頷いた。
「応援してくれてる人がいるのね」と主任は言って、うちわを指差した。「由美さんは一人じゃない。声援を力に変えましょう」
「はい」
今度はさっきより大きな声を出せた。
由美はヘッドフォンを装着した。手をグーパーグーパーして指の屈伸運動をしてから、主任を見上げた。
主任が頷いたので、由美はエンターキーを押した。
ヘッドフォンから声が流れてきた。
「高知県宿毛市──」
必死で指を動かす。
死に物狂いで食らいつき、住所と名前を入力していく。
無我夢中でタイピングを続けた。
突然音が聞こえなくなった。
あれっと思っていると、画面に〈テスト終了〉という文字が現れた。
永遠のような、あっという間のような二十分が終わった。
由美はヘッドフォンを外した。
主任が「お疲れ様」と言い、「ちょっと待っててね」と続けて、由美の隣席でタブレットを操作する。
由美はドキドキしながら結果を待つ。
どうかなぁ。マンションの名前が長くて、ややこしいのがあって、手こずってしまい、制限時間ギリギリになってしまったのが何個かあったのよねぇ。
主任が顔を上げた。「鈴木由美さん。九十一点で合格です」
えっ?
由美は確認する。「今、合格と言いましたか?」
「言いましたよ。おめでとう」
「有り難うございます。良かったぁ」
ほっとした途端、冷えて硬くなっていた身体に体温が戻って来たような感じがした。
主任が言う。「たくさん練習したのね。前回のテストの出来とは雲泥の差だもの。よく頑張りましたね」
なんだか胸がいっぱいになってしまって、言葉が出ない。
由美はただ頷いた。
主任が続けた。「タイピングが速くなったから、お客様を待たさずに済みますね。由美さんの接客はとてもいいですよ。無駄話がやや多いですが、話し好きのお客様もいらっしゃいますからね。無駄話もサービスの一つです。その調子で最強のオペレーターを目指して頑張ってください」
「はい」と元気良く答えた。
嬉しい。凄く。頑張って、結果を出せた。この私が。それって凄いわよ、やっぱり。真緒と直子と、それに夏希が応援してくれたお蔭。それに動画の視聴者からのコメントも力になった。皆がいなかったら、こんなに頑張れなかったもの。時給が上がるの、嬉しいし。それに私はここにいてもいいって言われた気がして……それも嬉しい。
部屋を出た由美は廊下を進む。
そしてオペレーター室に足を踏み入れた。
一番前のテーブルに着く夏希が顔を上げた。電話の相手に向かって喋りながら、問いかけるような目を由美に向ける。
由美はうちわの〈絶対合格〉と書かれている方を夏希に見せて、合格のところを指で指してからピースサインをした。
夏希が微かに頬を上げた。
それ、微笑んだのよね?
夏希が左手を上げた。
由美はその手にハイタッチをすると、歩き出す。テーブルの間を進みながら、真緒と直子を探す。
いた。
二人は隣り合った席に着いて、電話を受けていた。
由美は二人の横で足を止めた。そしてうちわの〈合格〉の文字を指差してからピースサインをした。
二人は客との会話を続けながらも、大喜びをしてくれた。
二人が上げた手にハイタッチをした由美は、自席に進む。
そして勢い良く腰掛けた。
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