『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が好評発売中です。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
十一
やっとG駅に到着した。
遥たちが住むマンションは、ここから徒歩で五分ほどのところにある。
由美は主任から請われて先週、休日出勤をした。今日はその振替休日だった。
由美が住む団地から一時間半掛けて、遥と晴琉に会いにやって来た。
G駅からは北に向かって大通りが走っていて、その左右にはニョキニョキとタワーマンションが建っていた。
そうした高層ビルのせいなのか、ここはいつ来ても強い風が吹き抜けている。
紙袋を風にもっていかれないよう、胸に抱えて一歩一歩強く足を前に出して進む。
そうして遥たちが住むマンションに到着した。
玄関ドアを開けた遥は自分の口の前に人差し指を立てて、晴琉が昼寝したところだと言った。
由美はそうっと寝室に入りベビーベッドの中を覗く。
天使のような晴琉の寝顔をしばし眺めてから、リビングに移った。
ソファの背後に窓があり、レースのカーテンが風を受けて膨らんでいる。遥たちが住んでいるのは二階なので、景色は全然良くない。隣に建つタワーマンションが邪魔をしていた。
遥が紅茶を淹いれてくれるというので、由美はソファに座って待つ。そして紙袋から包みを取り出して、ローテーブルに並べた。
遥がマグカップを両手に一つずつ持ち、キッチンから出て来た。
遥がテーブルの上の包みを指差して言う。「また晴琉にオモチャ? 嬉しいけど無理しないでね。晴琉はもうたっくさんオモチャをもってるんだから」
「同じ台詞を私も親に言ったことがあるわ。祖母っていうのは、孫に貢ぎたくなっちゃう生き物なの」
「なんか、ママ、少し会わないうちに雰囲気が変わった。生き生きしているように見える」
驚いて「生き生き?」と繰り返した。
「そう。生き生き。お洒落にもなってるし」
由美は自分の服を見下ろした。
このセーターは量販店のセールで買った。働き出してから服に気を遣うようになった。そうではあっても生活に余裕はないので、買えるのは量販店の安物ばかりだ。それでも真緒や直子がすぐに気付いて、褒めてくれたりするので励みになる。
由美は言う。「お洒落になったかどうかは分からないけれど、安いのを探したり、コーディネートを考えたりするの、結構楽しいの」
「ママが生き生きしていて私も嬉しいよ」紅茶をひと口飲んだ。「パパの方の情報、聞きたい? それとも聞きたくない?」
「情報? そうね、一応聞いておこうかしら。なに?」
「結婚式があった。それで私だけ出席した。晴琉と旦那には留守番して貰って」
「パーティーとは言わずに、結婚式と言うぐらいだから、式場でやったということ?」
遥が頷いた。「ディズニーランドの中のホテルで」
「新婦の希望だったんでしょうね」
「ミッキーとミニーに見守られながらケーキに入刀してた。ドナルドダックとか、リスのなんて言ったっけ……忘れちゃったけど、そういうディズニーの仲間たちもお祝いに駆け付けて、盛り上げるっていう演出の披露宴だった」
由美は眉を少し上げた。
遥が続ける。「それでね、芽衣さんは子どもが欲しいんだって」
「あの人、これから子育てをする気なの? あの人、五十四よ。子どもが二十歳になった時には七十四なのよ。七十四の時に子どもがまだ大学生って……子育てにはお金が掛かるのに、どういう資産設計を考えているのかしらね。ま、知ったことじゃないから、どうでもいいけど」
「どうでもいいの?」
「だってもう私には関係ない人だもの」
そう言った後で由美は自分の答えに少し驚いた。いつからこんな気持ちになっていたんだろう。
あー。
晴琉の泣き声が聞こえてきた。
遥が「起きちゃった」と残念そうに言ったので、由美は立ち上がり「私があやすわ」と言った。
十二
「始まった?」と由美は夏希に尋ねた。
夏希が小声で「始まってます」と答える。
由美は声を出す。「今晩は。今日は初めてのライブ配信に挑戦します。やだ。なんだか緊張してきちゃった。失敗しちゃったらごめんなさいね」
スマホのカメラは由美の手元を映している。
そして夏希は映り込まないよう、流しの横に座り込んでいた。
ライブ配信をサポートするために、由美の自宅に夏希が来てくれているのだ。
由美は吊戸棚から下げたラックに置いたタブレットに目を向けた。「この右に出てきているのが、今、見ている人たちのコメントね?」
夏希が頷いた。
コメントを見ながら由美は言う。「⦅六十代のヒロイン⦆さん、今晩は。今日のメニューはなにか、ですね。今日はジャガイモの肉巻きと、エリンギのマヨネーズ炒めを作ります。はい、頑張ります」
由美はボウルを近くに引き寄せる。「まずジャガイモの皮を剥いて、水に浸けておいてください。そうそう。ピーラーを使わないんですねというコメントを結構貰うんだけれど、私は包丁を使った方が全然早いからなの。まぁ、どっちでもやり易い方で剥いてくださいね」
ボウルの中身をザルに上げて水を切ると、ジャガイモをまな板の上に置いた。
包丁を当てる。「ジャガイモは拍子木切りにしてください。太さはね、これぐらい」一本を摑んでカメラに近付けた。
ジャガイモのカットを終えると、今度はまな板に豚肉を広げた。
由美は言う。「豚肉の上にジャガイモを、二、三本──四、五本でもいいですよ。こんな風に載せて、豚肉で巻きます。こんな感じ。豚肉の薄切りって、大好き。お安いし、色々アレンジ出来るから。ただ、薄切りのお肉は食べ応えが薄いでしょ、やっぱり。薄切りなんだから。この弱点を、巻くことで克服出来ちゃうの。口の中に入れると、噛み応えがあるでしょ。この噛み応えは食べ応えと一緒だからね。本当はジャガイモをいっぱい食べているんだけれど、お肉を食べていると脳を勘違いさせるっていう作戦なの」
夏希が自分のスマホを見ながら「『出た。食べ応え』というコメントが複数上がってます」と囁いた。
由美は説明する。「食べ応えって、私はつい言っちゃうんだけれど、とっても大事だと思ってるからなの。節約料理であっても、食べ終わった時に、満腹感を味わいたいのよ。だから豚の薄切り肉だと、アスパラガスを巻く人が多いかもしれないんだけれど、私は断然ジャガイモを勧めたいの。アスパラガスよりジャガイモの方が食べ応えがあるから。あっ。また言っちゃった」肩を竦すくめて笑みを浮かべた。
それからジャガイモの肉巻きを耐熱皿に並べ、ラップを掛けてからレンジに入れた。
由美は続ける。「このソースは後で手作りしますが、面倒だったら家にあるドレッシングを掛けて貰ってもいいです。次はエリンギのマヨネーズ炒めをやりますね。エリンギは輪切りにしてください。エリンギを縦に切っちゃうと、見た目がしょぼくなるでしょ」
夏希が首を捻ひねった。
「あら?」由美は言う。「私だけが思ってることだった?」
夏希がスマホを眺めながら「同意のコメントは上がってこないです」と声を潜めて言った。
「私だけだったようね。まぁ、いいわ。私は一人でもエリンギの輪切りをこれからも推していくから」
フライパンにマヨネーズを絞り出し、そこに輪切りのエリンギを投入した。火を点けて、へらで混ぜる。
夏希が囁いた。「『最近愚痴が減りましたね』というコメントが上がってます」
「愚痴が減った……そうかも。愚痴を言っている時間が勿体ないなって思うようになって……でも。それじゃ、この動画の個性がなくなっちゃうわね。愚痴りながら料理をするのが特徴だったんだから。動画を始めた頃は、愚痴りたいことばっかりだったの。こんなはずじゃとか、なんで私がこんな目にとか、思ってたからね」
マヨネーズをエリンギの上に追加で掛ける。それから火を少し弱めた。
由美は続ける。「皆さんがコメントをくれるでしょ。最初は凄く驚いたの。見てくれた人がいて、コメントをくれる人がいたってことにびっくりして。私の愚痴を煩うるさいなんて言わずに聞いてくれて、頑張ってと応援してくれて、本当に有り難うございます。皆さんからの言葉はとても励みになりました。努力するとか、一生懸命頑張るとか、そういうの、すっかり忘れていて。でもやっぱり大事だなって思うようになりました。一人で生きていくのだから、頑張らないとね。私ね、いい仲間に恵まれたの。だから頑張れそうな気がしてるんだ」
その時、ピーと電子レンジが鳴った。
地獄の底で見たものは
桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』の試し読みをお届けします。