『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が好評発売中です。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
十三
真緒が「辛い」と言って箸を置き、ハイボールのグラスに口を付けた。
居酒屋のテーブルの中央には火鍋がある。
真っ赤で、ぐつぐついっているその火鍋に、真っ先に箸を入れたのが真緒だった。
一月の給料日の今日、真緒と直子と由美はいつもの居酒屋に来ている。
同じように給料日の人が多いのか、いつも以上に混んでいて、いつも以上に大騒ぎをする客の声が店内に響いている。
真緒が言う。「許されるなら、舌をずっとハイボールの中に浸していたいって感じ」
直子が「そんなに?」と目を丸くし「どうする?」と由美に聞いた。
由美は直子を見つめた。「どうしよっかぁ」
真緒が「ちょっとぉ」と声を上げる。「食べないっていうのは、ないでしょ。新メニューだから注文しようよって言ったの、直子さんじゃなかった? 違う? 由美さん? どっちでもいいわよ。トライ、トライ」
由美と直子はそれぞれの取り皿に、鶏肉とキャベツをほんの少しだけよそう。
直子が「いっせいのせで食べよう」と言うので、由美は頷いた。
由美と直子は箸で鶏肉を摘み上げた。
直子が言った。「いっせいのせ」
同時に二人は口に鶏肉を入れた。
由美の舌はすぐに痺れる。思わずドンドンとテーブルを叩く。
直子は自分の喉を掻きむしり始めた。
二人の様子を見た真緒が大笑いをする。
由美は鶏肉をなんとか呑み下し、すぐにカルピスサワーをがぶ飲みする。
直子もジンソーダをぐびぐびと飲むと涙目で「こんなの罰ゲームだよ」と言った。
それで三人で大笑いした。
笑い過ぎて由美が咳き込み始めた時だった。
由美のスマホが鳴る。
由美は咳の合間に「娘から、ゴホン、電話、ゴホン、ちょっと外、ゴホン」と言って席を立った。
店の外に出た途端、コートを羽織れば良かったと後悔する。
外はキンキンに冷えていた。
由美はスマホを耳に当てた。
そして「はいはい。フー、どうした?」と足踏みをしながら尋ねた。
「今、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないけれど、いいわよ、なに?」
「あのさ、パパのことなんだけど」
「死んだ?」
遥が「死んでないよ。なによ、それ」と大きな声を上げた。
雅規は一ヵ月前に脳出血を起こして倒れた。命はとりとめたが半身に麻痺が残ったと聞いていた。
由美は足踏みの速度を上げる。「死んではいないのね。それで?」
「パパね、今、介護施設に入ってるの」
「えっ。そうなの?」
「面会に行ったらね、ママに施設に来て欲しいと伝えてくれって言われたの」
由美は確認する。「私に来て欲しいって? そう言ったの?」
「うん」
「なんで?」
「分からない」
「介護施設に入所って一時的にってこと?」由美は尋ねた。
「分からない」
「分からないことばっかりなのね。ま、行ってあげてもいいわよ。どこの、なんていうところ?」
「本当に?」大きな声を上げた。
「なんでそんなに驚くの?」
「だって……本当にパパに会いに行くの?」遥が確認する。
「だから、行ってあげてもいいわよ」
「ちょっとびっくりなんだけど。もしかして来てと言われたから、行きたくないのに我慢して行くの?」
「違う違う。もうあの人は過去の人だからね、私にとっては。わだかまりも折り畳めるぐらいになってるのよ」
遥は「へぇー」と間の抜けた声を発した。
電話を切って由美は席に戻った。
由美が「外は寒いよ。すっかり身体が冷えちゃった」と言うと、真緒と直子が同時に火鍋を指差して「どうぞどうぞ」と勧めた。
由美は笑いながら「いえいえ」と答えて蟹クリームコロッケを小皿に取る。
こんな風に仕事帰りに友人たちと居酒屋で過ごすようになるなんて、思ってもみなかったけれど──楽しいんだなぁ、これが。先のことを考えて不安になってたってしょうがない。頑張れば、なんとかなる。多分。応援してくれたり、助けてくれたりする人が、私にはいるから。
由美はグラスを持ち上げた。
そして「これからの人生にカンパーイ」と声を上げた。
すると真緒と直子が、顔を見合わせた。
すぐに二人はケラケラと笑い出し、自分たちのグラスを持ち上げた。
それから「カンパーイ」と言って、由美のグラスにぶつけた。
十四
誰かが野菜を育てているようだ。
小さな菜園に人にん参じんの葉が茂っていた。緑色の葉の中に黄緑色の葉がちらほらと見えるので、収穫の時期は近そうだ。
由美は介護施設のラウンジの窓越しに、中庭を眺めていた。
雅規が暮らしているという施設は、Y駅からバスで二十分のところにあった。細い川を挟むように住宅が並び、その中に紛れ込むように建っている。入り口横に掛けられている表札に気付かずに、前を通り過ぎてしまったぐらい、住宅のような外観だった。
由美は窓際に置かれたテーブルに着き、ライトベージュ色の座布団が敷かれた椅子に、腰掛けている。
辺りには消毒液のようなにおいが漂っている。
「園芸部の人たちが育てているんだ」と背後から雅規の声がして由美は振り返った。
車椅子に乗った雅規が近付いて来る。左手で車椅子の肘掛けの先にあるスティックを握っていて、ゆっくりと進む。
右手は膝の上に置かれていた。
痩せたわね。五キロは痩せたんじゃない? もっとかも。顔も首も、手も、干からびているから、すっかりおじいさんみたい。そのチェックのネルシャツは、以前着ていたものなんでしょうね。小さくなった身体が服の中で遊んじゃってるんだから。
車椅子は由美がいるテーブルの少し手前で停まった。
雅規が言った。「まるで高校みたいにいろんなクラブがあるんだ。書道部とか合唱部とか」
「……」
「いつだったか、由美が庭で作っていた野菜が病気になって全滅したよな」
呼び捨て? もう妻ではないのだから、さんぐらい付けるべきじゃない? 私、細かいかしら。
雅規が続ける。「それで君は泣いたね。慰めてもなかなか泣き止や んでくれなくて、どうしようかと思ったよ」
「……」
「そういや、サツマイモが豊作だった年があったろ。近所に配ったんだよな。そうしたら次の日、会社に行くんでI駅のホームで電車を待ってたら、声を掛けられたよ。サツマイモの人ですよねって。サツマイモを一度配ったら、サツマイモの人になっちゃうんだから可笑しいよな」
どうでもいいことをペラペラと。前は私がなにを聞いたって、「ああ」しか言わなかった癖に。この人はなにを焦っているんだろう。
バサッと音がして由美は顔を左に向けた。
壁に貼られていた書道作品が一つ床に落ちていた。
入所者の作品だろう。
半紙にしっかりとした筆さばきで書かれた〈希望〉という文字を、由美は見つめる。
雅規が口を開く。「ちょっと感じが変わったな」
由美が黙っていたら、雅規もなにも言わなくなり、ラウンジは静けさに包まれる。
由美は腕時計に目を落とした。
今日乙女座の運勢は、星座のうちで一番いいはずなんだけれど、今のところ、いいことはなにも起こっていない。
少しして雅規が言い出した。「ここまでどうやって来たんだ?」
「そんなことを聞いてどうするの?」
「どうするって……由美は方向音痴だから、ここに来るのに苦労したんじゃないかと思ってさ。ほら、僕の友達何人かと貸別荘に行ったことがあったろ。買い忘れたものを買ってくると言って出て行った由美が、全然帰って来なくてさ。大騒ぎになったの、覚えているか? 店と貸別荘は歩いて十分もないぐらいの距離なのにだよ。携帯なんてまだ持っていなかったから、店に行ったんだよ。店の人に聞いたら、大分前に買い物をして店を出たって言われてさ。その辺りを手分けして捜したんだがいないんだ。四時間ぐらい経って、もう警察に捜索願を出そうと決めた時、由美が戻って来たんだ。店がある方向からじゃなく、反対の山の方から。なんでそっちからって僕も驚いたが、皆も随分驚いていたよ」
再び腕時計に目を落としてから言う。「思い出話を聞いて欲しくて私を呼びつけたの? だったら帰らせて貰うわ。私、暇じゃないのよ」隣席に置いていたトートバッグの持ち手を握った。
雅規が慌てたように早口で言い出した。「実はさ、離婚しようと思ってるんだ。だから昔のようにまた僕と暮らさないか?」
「は?」
びっくりして雅規を見つめる。
なに言ってんの、この人。
由美は確認する。「あなたが再婚した人と離婚しようと思っていて、昔のようにまた私と一緒に暮らさないかって、そう言ったの?」
雅規が頷いた。
由美の腹の底から笑いが湧き上がってくる。
そして弾けるように笑い出した。
ラウンジに由美の大きな笑い声が響き渡る。
可笑しい。可笑し過ぎる。なんて人なんだ、この人は。また僕と暮らさないかだって。ウケる。
笑い過ぎて呼吸のリズムがおかしなことになる。息が苦しくなってきたので深呼吸を試みる。
何度も深呼吸にトライしているうちに、段々息が落ち着いていく。
やっと普通に呼吸が出来るようになって、一つ大きく息を吐いた。
それから言った。「あなたが笑わせるから、呼吸がおかしなことになっちゃったわ。私に自宅で介護をさせたいのね。そうでしょ。若い奥さんに介護を拒否されたからよね。だからここにいるんだろうし。その顔は図星ね。冗談じゃないわよ。私を裏切っておいて、傷付けておいて、介護をして貰えるかもしれないなんて、一瞬も思わないで。図々しいにもほどがあるっていうか、よくもそんなことを思い付いたもんだって呆れるわ。あなたへの同情心なんかゼロだから。興味もゼロ。あなたがどうなっても構わないから。今の私がどんな生活をしているか、どんな気持ちでいるか、あなたは聞いてこないから教えてあげる。私はね、一生懸命働いて頑張ってるの。応援してくれる仲間に支えられてね。毎日が充実しているのよ。あなたには意外だろうけれど、私は今の生活に満足しているの、とってもね。私を頼ろうなんて金輪際思わないで頂戴。連絡もしてこないで。以上」
由美は立ち上がった。呆然としている雅規の横を通り抜ける。歩く。力強く。ドアを勢い良く開けた。
そして一歩を踏み出した。
* * *
一方的に離婚を押し付けられた由美が、新たな一歩を踏み出す第一章「五十三歳で専業主婦をクビになる」をお届けしました。
他にも、「五十一歳でこれまでの働きぶりを全否定される」、「四十六歳で教え子の選手に逃げられる」、「五十二歳で収入がゼロになる」と、様々なアラフィフのどん底からの逆転劇を収録した桂望実『地獄の底で見たものは』、ぜひ全国の書店、ネット書店でお手に取りください!
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地獄の底で見たものは
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