『県庁の星』『嫌な女』などで知られる桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』が好評発売中です。人生の後半戦、もう自分の人生には大きな波乱はないと思い込んでいたアラフィフの女性たちが、突如現れた落とし穴に落ち、どん底からしたたかに這い上がる様子を描いた短編集です。読めばスカッと爽快! あなたも生きる勇気が湧いてくること間違いなしです。本書から1章の試し読みを掲載します。(はじめから読む)
* * *
五
由美は榑縁の窓を開けた。
柔らかな風が部屋に入り込む。
踏石の上のサンダルに気が付いた。
ゴミ袋に入れるのを忘れていた。
サンダルに足を突っ込み縁側の端に腰掛ける。
背後から階段を下りてくる足音がして、由美は振り返った。
引っ越し業者の二人の男性スタッフが、箪笥を二階から下ろそうとしている。
この家の売却先が決まったので、由美は今日ここを出て公団に移り住む。売却金でローンを完済し残った額は折半する。預貯金の方は、その六割を由美が貰うことで話がついた。由美は旧姓の鈴木に戻る。
スタッフが運んでいる箪笥は、二百円で引っ越し業者が買い取ってくれる。提携しているリサイクル店で売るのだという。
公団の部屋は1DKで三十平米しかない。ここにある家具を置くスペースはないので、一部を除いて売却か処分することになった。家具だけでなく食器も服もあらゆる物を手放す。
公団に持って行く物は昨日までにまとめてある。それらを収めた段ボール箱は三つになった。
庭に目を戻す。
左の菜園スペースには、キュウリとインゲンとジャガイモを植えてあった。
どれも来月収穫するつもりだった。
だが明日、解体業者がこの庭と家を取り壊して更地にする。
野菜たちに申し訳ない気持ちになって、ごめんねと心の中で呟いた。
この庭でたくさん写真を撮った。家屋を背にして立ち庭の向こう側から撮るのが、我が家で一番いい撮影場所だったから。
遥のお宮参りの時も、七五三の時も、神社でたくさん写真を撮ったのに、帰宅してからこの庭でも写真を撮った。
花火をした時も、ランドセルを初めて背負った時も、小学校の入学式の日も。たくさんの写真をここで撮ったが、雅規が提出してきた欲しい物のリストに、アルバムはなかった。
雅規はもういらないのね。私たちとの思い出は。
由美は足を上げて縁側に膝をついた。屈んでサンダルを持ち上げる。
それからキッチンカウンターの前に並べたゴミ袋の中に、サンダルを捨てた。
リビングを眺める。
二十平米ある部屋の中央に、ソファとローテーブルがある。
ベージュ色の布カバーを掛けられたソファの中央が、雅規の定位置だった。四十三V型のテレビ画面の正面の席だ。
そういえば遥が寝た後で、ここで大リーグの試合を一緒に観たことがあった。日本人選手がホームラン記録を達成するかもしれない大事な試合だった。高校まで野球をやっていた雅規は、目を輝かせて応援していた。由美も隣で精一杯声援した。その選手がホームランを打った。由美と雅規は立ち上がり、ハイタッチをして喜び合った。普段大きな声を出さない雅規が何度も「よっしゃ」と興奮したような大声を上げた。雅規が嬉しそうなことが、由美は嬉しかった──そんな日もあったっけ。
こんな思い出、早く忘れたい。丸ごと全部。
スタッフの声がして由美は廊下を覗いた。
ベッドを下ろそうとしている。だが階段と廊下が直角に交わっている上に、廊下が狭いため曲がれなくて手こずっている。切り返しを繰り返していた。
力を合わせてベッドを運ぼうとしている二人を、由美はぼんやりと眺めた。
六
遥より年下と思われる若い男性が、由美の履歴書に指を置いた。
それから顔を上げて質問を口にした。「これによると、最後に働いたのが二十八年前ということですか?」
由美は頷く。「はい。短大を卒業して新卒で製紙会社に入社して、五年で結婚退職しました。専業主婦になって二十八年になります」
「二十八年ぶりに働こうと思ったのはどうしてですか?」
「離婚しまして、生活費を稼がなくてはならなくなりました」
「そうですか」
テーブルに置かれていた男性のスマホが震えた。
男性は画面を覗き込むと「ちょっとすみません」と言ってスマホを手に部屋を出て行った。
三畳ほどの面接室に由美一人が残される。
ハローワークで見つけた会社だった。長期保存出来る食品を作っているという。
今月、面接をして貰えたのはこの会社で三つ目だった。大抵履歴書を先に送ってくれと言われてしまうので送付すると、不採用通知が届き面接にまで進めないのだ。今日のように履歴書を持参するスタイルだと、同時に面接になるので担当者に会うことは出来る。でも結局は不採用になるのだけれど。人手不足とはいえ、条件のよい仕事は高倍率になるので、五十三歳で職務経験が二十八年前の五年間だけで、資格をもっていない由美は採用されない。
この前面接して貰えた時の女性担当者からも、二十八年ぶりに働こうと思った理由を尋ねられた。離婚したからと答えると、その女性は同情するような表情を浮かべた。そして大変ですねとしみじみとした調子で言って、何度も頷いた。そうした態度を取られたのは初めてで、同情心から雇って貰えるのではないかと期待を抱いた。だが不採用通知が届いた。同情されても結果は同じだった。
十分ほどして男性が戻ってきた。
ちらっと履歴書に目を落としてから言った。「今日はお越し頂いて有り難うございました。結果は後日郵送でお知らせします」
男性が由美に割いた時間は五分だけだった。
自宅に戻るため電車に乗った。
午前十時の電車は空いていて、由美はシートの中央付近に腰掛けた。
向かいの座席の女性は由美と同世代に見える。その人は美人だった。高級ブランドのバッグを膝に載せていて、左手の薬指にはゴールドのリングをしていた。
四十分後にH駅で降りた。
駅前のスーパーで食材を買ってから自宅に戻った。
すぐに一つだけある窓を開ける。
小さな小さなベランダには洗濯物が干してある。
一人分の洗濯物はとても少ないと、一人暮らしを始めて知った。だから僅か一メートル幅の小さなベランダでも事足りた。
振り返って部屋を眺める。五十三歳で辿り着いた部屋を。
小さな部屋の大部分を占めているのはベッドだ。シングルサイズでも狭い部屋の中では存在感が大きい。少しでも部屋を広く見せようと、ベッドリネンを壁の色と同じ白に揃えたのだが、病室のようになってしまった。
スーパーで買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞った。そしてキッチンの隅にスマホをセットし、なんちゃってカルボナーラを作る様子を動画で撮影した。後でユーチューブに投稿するつもりだ。
一人暮らしになって、言葉を発する機会が極端に減った。そのうちに声の出し方を忘れてしまうんじゃないかと、不安になった。そこで愚痴を声に出しながら料理をしてみた。我ながらなんだか可笑しくて動画を撮ってみた。それを後で見てみたらやっぱり可笑しかった。楽しくなるようなことは一つも言ってなくて、ただ愚痴を言い続けているだけなのに笑っちゃうのだ。それでユーチューブに投稿してみた。そうやって投稿した動画が今では十個ぐらいになった。
テーブルに完成したパスタとサラダを置き、それも撮影をした。
撮影を終えると椅子に腰掛けて食事を始める。
右手でフォークをクルクルと回してパスタを絡めながら、左手でスマホをタップした。そして自分の動画をチェックする。
あっ。また〈いいね〉が増えてる。コメントも。嬉しい。今の生活で嬉しくなるの、コメント欄を見ている時だけ。
〈yumiさんの節約時短レシピはどれも挑戦し易くて、いつも参考にしてます〉
〈チキンが美味しそう〉
〈yumiさんの愚痴にそうそうと頷くこと多〉
誰かが私に気付いて声を掛けてくれた……いい気分。
由美は大きな口を開けてパスタを食べた。
地獄の底で見たものは
桂望実さんの新刊『地獄の底で見たものは』の試し読みをお届けします。