1. Home
  2. 生き方
  3. ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~
  4. 帰りの乗車券はとらずに、山梨塩山

ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~

2024.10.12 公開 ポスト

帰りの乗車券はとらずに、山梨塩山大平一枝

 今回は行き当たりばったり上諏訪珍道中を書こうと思ったのだけれど、おや、そういえば昨日行ったのがまさしく「小旅(こたび)」だったぞと気づき、ほやほやのうちに書き記しておくことにした。

 旅先は山梨県塩山(えんざん)市である。JR中央線塩山駅で下車し、徒歩数分のところに元担当編集者さんが週末のみの小さな書店を開いた。「本とワインの店」とのことで、地元のワインも買える。

 ライターの友人と、涼しくなったら行こうと約束をしていた。

 

 日程が決まると、彼女がJR東日本のアプリ「えきねっと」で中央線「かいじ」の往路だけ予約を取った。チケットレスで人数分予約できるので、私はSuicaのカードでスムーズに入場できる。

 あえて復路は予約しない。

 帰りの時間を決めると、とたんに旅が逆算になる。◯時までにあそこに行って、ここを☓時までに出て……。のんびりするはずが、時計が気になってしまいもったいない。往路で予約をするところから始まる大旅と違って、片道1時間20分の旅なんぞは、たいがい帰りはどうとでもなるのである。

 無理な早起きはせず、12時半発の電車の座席で待ち合わせをした。

 ひとり分の昼ごはんを買って、彼女の取ってくれた席に行く。そう、この年になると、好きな駅弁の店、電車で飲みたいものの好みが決まってくる。改札で待ち合わせて一緒に弁当を買おうかという話も出たが、「それぞれで」となった。

 やってみるとこれが大正解で、私は帰省で中央線に乗るときは、珍しいクラフトビール缶が揃っている新宿駅南口構内・中央線乗り場近くの成城石井と決めている。この日は、朝食が遅くお腹が空いていなかったので、いぶりがっこ(たくあん)とチーズというつまみのような軽食を合わせた。成城石井はサラダやマリネも充実していて、惣菜を買えるところも気に入っている。地方取材も多く旅慣れている彼女は、新南口の「日本橋だし場」のお弁当が好物とのこと。

 それぞれ好きなビールと弁当でスタートできるのは、ストレスがない。ふたりでいぶりがっこをポリポリかじり、おしゃべりが続く。

 塩山に近づくほど、車窓の木々が色づいてゆく。

 1時間半前にいた東京では、秋なんて暦の上だけじゃないかと恨めしく汗ばむシャツをパタパタやっていたが、塩山駅に降り立つと、嘘みたいにどこまでものどかな山里の秋が眼前に広がっていた。

 瓦屋根、土蔵、路肩で草をむしるおばあさんの首まで隠れる花柄の日除け帽子、たわわに実る柿。遠くに来たなあと、背伸びをしながら深呼吸をする。特急電車ってすごいな、1時間半乗っただけでこんな別世界の風景の前に連れて行ってくれる。

 柿の木越しの雲は、夏のそれとはあきらかに違う、高い空に似合う秋の顔をしていた。季節は移ろっているのだと、久々に見上げた空に教えてもらう。

 書店店主に行くことを告げていない私達は、何も言わずふらりと入って、知らん顔をして普通の客のように棚を見ることにした。サプライズは大成功で、おおいに驚いてもらえた。

 すっかり気分は舞い上がり、三人でひとしきり語り合ったあとは、周辺散歩へ。店主に教えられたユニークな地元の自然食品店で、有機にんにく1個100円を買い、次に集落のはずれにある静かな焼き菓子屋を訪れた。墨色がかったグレーの漆喰壁に木の扉。小さなショーケースのある店内に入ると、奥の中庭にテラス席が見える。

 スコーンと、ファーブルトンというプルーン入りの焼きプリンのようなお菓子を選んでいると、山梨のワイナリーで作っているクラフトビールが生で飲めるという。友人がそのワイナリーを知っていて、「あそこならビールもおいしそうですね」とさっそく注文し、テラス席に向かった。

 木々の間を風がそよぐテーブル席からの風景に、セゾンビールの軽やかな味わい、フレッシュな香りが合うこと合うこと。

 何も決めない旅は楽しい。ささやかなサプライズに出くわすと、喜びが倍増する。焼菓子屋でクラフトビールが飲めるなんてね。私達はおいしい空気と一緒に、黄金色の一杯を堪能した。

 書店は、分校のような古い2階建てビルの一角にある。今年フルリノベーションされ、「シルク」という複合施設に生まれ変わった。
 私達は、ビルに戻り、その日開いていた発酵食品と個性的なアウトドアグッズの2軒を覗いた。それぞれで、店主と立ち話をする。こんなふうに売り手とゆっくり会話をしながら買い物をするのはいつ以来だろう。結局何も買わなかったのだけれど。

 書店では、じっくり棚をパトロールする。

「読みたいなと気になっていた本、読んだ本、全く知らない本のバランスが絶妙だよね」。友達がささやく。……と、さっきのアウトドアショップの店主がワインを買いに来て、しばらくすると今度は焼き菓子屋の店主が本を買いに来た。「ようやく本を読むすきま時間ができました」と、リラックスした表情で言う。3人目が生まれてまもないそうで、なかなか時間が取れなかったらしい。
 そうそう、私達も同じ、読書に集中できないんですよねと盛り上がる。

 日が暮れてきた。さてそろそろ帰ろうか。
 夕飯を塩山で食べるのか、車内で食べるか、あるいはおのおの帰宅後にするのか、何も決めていない。

「せっかくだし、どこかで軽く食べてから電車に乗ろうか」
「うん、そうしよう」

 じゃあどこへ? 書店店主も開業して間がないので、夜のめぼしい店は知らないという。スマホのグルメサイトを調べかけたが、なんだか木々の紅葉や高く青い空や、素敵な装丁の種々の書籍に目が馴染んでいるせいか、パンパンに詰まった細かい文字の情報を追う気になれず、スマホをしまう。

「歩いて適当に探そ」
「賛成」

 書店を出ると、ぐっと肌寒い。ああ、山里に来たんだなとあらためて実感した。きっとこの寒暖の差が、ぶどうをおいしくするのだな。
 駅の向こうにポツンポツンと灯りが三つ点在する。一軒ごとに、外からメニューをじっと睨んだり、扉から覗いたり。
 直感だけで決めた三軒目は、先客がカップル一組のみの居酒屋だった。音楽は流れておらず、小上がりに座卓が四つほどある。
 女将さんがひとりで切り盛りしているようで、「今日はできるものとできないものがあるけどいい?」。

 もちろんですと座敷に上がりしばらくして運ばれてきた突き出しは二種あった。
 ひとつはべったら大根・ゴーヤ・なすの漬物盛り合わせで、ふわりと鰹節がかかっている。すべて自家製と聞いて驚いた。おかわりしたいほどどれもおいしい。しょっぱすぎず、野菜の歯ごたえが残っていて、漬物ならではの旨味がしみこんでいる。これだけでどんぶりの白米が食べられそうだ。

 もうひとつの小鉢は豆腐に、ごま油で味付けしたニラがトッピングされた中華風冷奴である。

 メインの串揚げは見るからに美しい仕上がりだ。玉ねぎ、アスパラガス、ちくわチーズを二本ずつ。新しい油で丁寧に揚げたのがわかる白色で、きめ細かいパン粉がサクサクっとした歯ざわりを生む。

「大当たりだったね」

 小声で、旅の締めを飾るにふさわしい店を選べた幸運を喜びあった。そこでやっとえきねっとを検索すると、ちょうどいい18時台は満席だ。30分ずらせば空席多数とのことで、19時15分発に。旅の、三〇分一時間の遅れなど気にすまい。その分ゆっくり飲めるねとハイボールをおかわりした。

 こうして書き出すと、しみじみと、とるにたらない旅である。土産は、にんにくひとつと焼き菓子ふたつと本三冊。そんなに写真もバチバチ撮らなかった。でも、しっかり見えない何かを補充できたと思う。少なくとも三週間分くらいの疲れも洗濯できた。

 心のボールが真っ白に膨らんだ気分だ。それをぽんぽん弾ませながら電車に乗る。空気がなくなってきたら、また小旅をして補充をすればいい。帰りの電車はなりゆきまかせで。

{ この記事をシェアする }

ある日、逗子へアジフライを食べに ~おとなのこたび~

早朝の喫茶店や、思い立って日帰りで出かけた海のまち、器を求めて少し遠くまで足を延ばした日曜日。「いつも」のちょっと外に出かけることは、人生を豊かにしてくれる。そんな記憶を綴った珠玉の旅エッセイ。

バックナンバー

大平一枝

文筆家。長野県生まれ。大量生産、大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに各誌紙に執筆。著書に「東京の台所」シリーズや『人生フルーツサンド』『こんなふうに、暮らしと人を書いてきた』『そこに定食屋があるかぎり』など。「東京の台所2」(朝日新聞デジタル&w)、「自分の味の見つけかた」(ウェブ平凡)、「遠回りの読書」(サンデー毎日)など各種媒体での連載多数。

HP:https://kurashi-no-gara.com/

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP