LDH JAPAN所属のダンス&ボーカルグループ・THE RAMPAGEのパフォーマーで、読書家として知られる岩谷翔吾が長編小説『選択』を書き下ろしました。原案は、2025年大河ドラマで主演を務める俳優・横浜流星。解禁時から話題となった本作は、発売前重版が決定! 発売を記念し、プロローグ全文を公開します。
* * *
人生は選択の連続である。
――ウィリアム・シェイクスピア※
亮は走っていた。父を殺すために。
もう、うんざりだ。殺す。絶対殺してやる。
なんであんなヤツがのうのうと生きていて、真っ当に生きている人間が苦しみ続けなければいけない。なんで全てを背負わなければいけない。なんで子どもは親を選べない。
世の中の不平等さを憎んだ。我慢の限界だった。冷たい光を帯びた刃物のような殺気立った心。胸の中に漂う、黒いもやに包まれた感情。やり場のない苛立ち。あらゆる負の感情が頭の奥でジリジリと煮えたぎるように湧いてくる。平衡感覚を無くした神経は鋭く尖った錐となり、いつしか自らの胸を何度も何度も突き刺すように責め立てる。
それらが心を侵食し、次第に自分自身を飲み込むほどに暗く大きな心の穴を形作っていった。
何故俺だけ、ポッカリと心に穴が空いているのか理解できなかった。幸せそうに笑うヤツを捕まえ、問い詰めたかった。何故俺だけ。畜生。畜生め。
夕方、家に帰ると家の中はぐちゃぐちゃに荒らされていた。荒れ果てた室内で母が泣き崩れていた。
「母さん、大丈夫?」
母は小刻みに震えていた。その身体は硬直し、身動きが取れていない。
拳を強く握りしめる。その固く結んだ手を母が優しくさする。
「いいの。私が悪いの」
そう言う母の目は怯えて焦点が定まらず、苦しげに荒い息遣いを繰り返している。はぁ、はぁ。狭い室内に、母から漏れる呼吸の音だけが谺する。
「亮、ごめんね。大丈夫だから」
母は唇を強く嚙み締めながらしきりにごめんね、と繰り返した。
涙を拭い、「ご飯作らないと……」と細々とした声で呟き、フラフラと立ち上がった。食器が散乱する台所へと向かう母の小さな背中を見つめていた。心配させまいと気丈に振る舞っているのが伝わる。だからこそ余計に辛い。辛かった、怖かったと強くしがみついてくれた方がまだ救われる。でも、母が心の欠片を一度でも吐き出したら、嘆きが止まらなくなることを本能で分かっていた。
母さんは何も悪くない、心の中で優しく話しかけながら背中をさすった。その手の動きに安心したのか、固く緊張していた母の身体が次第にほぐれていった。
「ゆっくり休んでて」
焼け付くような焦燥。やり場のない苛立ちに頭の芯がチリチリと音を立てている。怒り、憎しみ、陰鬱な感情が濁流となり波飛沫をあげ心を覆い尽くしていく。
左手の甲に浮かび上がる古傷が疼く。そっとそれを撫でた。
終わりのない負のループから母さんを救ってやりたい。アイツさえ。アイツさえいなければ。母さんは解放される。
もう限界だ。父を切り捨てなければ生きていけない。
殺す。殺す。
床に散乱している食器や包丁。その中から一番大きな包丁を手に取り、母に気づかれぬよう、買い物用のエコバッグの中に仕舞い込んだ。
「晩ご飯の買い出し行ってくる」
優しく微笑み家を後にした。
父は借金の取り立てから身を隠すために、車検切れのアルファードに寝泊まりしている。
いつもどこかしらのパチンコ屋の駐車場を転々としているので、おおよそ場所の見当は付く。
大通りに出ると赤信号に捕まった。
この街で一番大きな片側三車線の道路の脇に桜並木が広がっている。既に見頃を過ぎたところに、三日前の大雨で花びらは無惨に散り果てていた。つい最近まで誇らしげに咲いていたことさえすっかり忘れ去られたかのように、花の落ちた樹は誰にも見向きもされない。
明るい春の光の中、人々を喜ばせていた桜の花びらも、今では水溜りに浮かび、泥まみれになっている。
そして、人々はそれをなんの躊躇もなく踏みつけ、足早に歩いていく。地面に落ちた茶色く汚れた花びらには誰も関心を寄せない。
赤信号がなかなか変わらないことに苛立つ。工業地帯ということもあり、大型トラックやトレーラーが猛スピードで行き交っている。車優先で、歩行者用の信号の切り替わりがいつも遅い。信号を待つのが億劫になり、傍にある歩道橋の階段を一段飛ばしで駆け上がった。
まだらに塗装が剥がれ、雑多なタギングに埋め尽くされた歩道橋。
橋上に辿り着くと、歩道橋の中程に佇む、黒い服を着た少年が視界に入った。
柵に手をかけポツンと一人、立ち尽くしている。遠目にははっきりと表情が見えない。年の頃は自分と同じ中学三年生くらいだろうか。近づくにつれて、身体が小刻みに震えているのが見て取れた。
歩道橋下の大通りでは車のエンジン音が止むことなく、騒音と排気ガスの臭いが充満していた。
少年は固まったような表情で、途切れることのない車の往来を見下ろしていたが、亮の存在に気づいたのかチラリと振り向きお互いの目が合う。そこには暗い光が宿っていた。世の中の全てを諦めた輝きのない瞳。
殺意に溢れる亮の瞳と、絶望の淵にいる少年の瞳。
目が合ったのはほんの一瞬に過ぎない。でも同じ人種からのSOSを感じた。それは亮にしか受信できないラジオのチャンネルのように鮮明に心に訴えかけてくる。
助けて、と。脳内に直接語りかけてくる。
少年の背後を通り過ぎながら胸がざわついた。記憶の回路を巡らせる。
「……匡平?」
振り返ると少年は柵をよじ登りだしていた。
咄嗟に少年のもとへ駆け寄る。気づくと身体が勝手に動いていた。服を掴み、彼の身体を力の限り柵から引き摺り下ろした。少年は崩れ落ち、その場に座り込んだ。
間違いない。
その顔を見ると、やはり一時期施設で一緒に過ごした匡平だった。
しかし匡平は震える身体でその手を振り払い、もう一度歩道橋の柵に手をかけた。
亮は力任せに服を掴み、全身の力を込めて再び柵から安全な場所へと引き戻した。匡平は強く抵抗し、手足を激しく振り回し逃れようとする。二人の取っ組み合いはより激しさを増していく。埒があかず、匡平の鼻っ柱を思いっきり殴った。胸元に生温かさを感じて目を下ろすと、鼻から飛び散った血で、着ていた制服のシャツがところどころ赤黒く変色していた。
ポタポタと滴り落ちる血に怖じ気付いたのか、抵抗する力が弱まる。そして、観念するようにその場に膝から崩れ落ちた。
「お前なにやってんだよ」
亮はその隣に座り込んだ。エコバッグを足元に放り投げると、中から包丁が顔を出した。急いで包丁をバッグに入れる。
「亮……」
匡平の涙はとめどなく溢れ、頬を伝って地面に滴り落ちた。
両手で顔を覆いながら「ごめん……ごめん」と呟く。その声は世界中の孤独を一身に背負ったかのように、悲しく響き渡った。
そんな匡平の背中を優しく撫でた。
「死んだら終わりだぞ。何があったか俺には分かんねえけどよ。生きてりゃなんか良いことあるかもしんねえ。やり直せるかもしんねえだろ」
そう言って煙草を口に咥えた。ライターがカチッと音を立てて着火し、煙がふわりと立ち上った。
涙ぐむ匡平は顔を上げ、立ち上る煙を見た。
「お前も吸うか?」
匡平はこくりと頷き、一本煙草を受け取った。火をつけると思わず咳き込み、慌てて煙草を路面に押し付けた。
視線を下げた匡平が包丁が仕舞われたエコバッグを指さした。
「……それで誰か殺すの?」
その瞬間、車の走行音が消え、あたりに静寂が蔓延る。
「どんな理由でも、殺したらダメだよ」
その声が鮮明に鼓膜に届く。生きることを諦めた瞳と、自分の殺意に満ちた瞳を重ね合わせた。
生きる痛みを知る同じ種族。
普通ではない人種が二人揃えば、それは自分たちだけの普通となり、繋がりとなり、正義となる。一人じゃない。背負う傷は違うが、どこか似ている気がしてならない。彼の言葉は心に訴えかけるものがあった。
その時、どこからきたのか桜の花びらがヒラヒラと舞い落ちてきた。
亮は薄ピンク色の花びらを受け止め、そっと握りしめた。
空を見上げると、日没直後の空に、たった一つ力強く輝く星を見つけた。
一番星だ。
その横には半透明の月が兄弟のように寄り添っている。
遠くでカラスがカァカァと鳴いた。
春風が頬を優しく撫でながら通り過ぎていく。
それが二人が再会した夕暮れだった。
※ウィリアム・シェイクスピアの言葉として広まっているが、出典等詳細は不明。
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選択
大切な人たちを守りたくて、俺はこの道を選んだ。君がいたから、僕はこの道に進んだ―ー。岩谷翔吾と横浜流星、同級生の二人が心血を注ぎ、膨大なやりとりを経て紡いだ衝撃作。
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