本日(10月23日)発売の鯨井あめさんの小説『白紙を歩く』は、天才ランナーの定本風香(さだもと・ふうか)と小説家志望の明戸類(あけど・るい)のダブル主人公でお送りする青春物語です。
発売を記念し、本日から7日間にわたって風香サイドの冒頭シーンをお届けします。
* * *
セミの鳴き声と部活動の掛け声が、窓の外で響いている。梅雨が明けて夏が始まった六月末。
シャツの胸元をぱたぱたと煽ぎながら階段を下りていると、「定本」と呼び止められ、わたしは踊り場で振り返った。
階段を下りてきた横田先生は、いつもの赤いジャージ姿だ。これから部活に向かうのだろう。
「脚の具合はどうだ?」
「まずまずです」
「改めて、インターハイ残念だったな」
曖昧に頷くと、横田先生は「おお、なんだなんだ」と興味津々に眉を上げた。「本当は出たくなかったのか?」
「いえ。でも、辞退しても、残念だとは思わなかったな、って。夏の予定が無くなっちゃったな、とは思います」
「定本らしいなぁ」笑う先生の上半身が揺れる。「秋から調整して、新人戦には間に合わせような」
気を付けて帰れよ、と先生は階段を下りて右に曲がり、職員玄関のほうへ去っていく。大柄で筋肉質。広い肩幅。刈り上げた黒髪。四角い顔。「ゴリ田せんせー」と呼ばれると、「そういうニックネームはやめなさい」と窘めながらも、むんと力こぶを作る、陽気な先生。
わたしは階段を下りて左に曲がった。職員室のドアは開いていた。漏れた冷気が足元を流れていく。なかを覗くと、先生たちの頭が点在している。ドアをノックして、「失礼します、蓼科先生はいらっしゃいますか」と声をかけた。頭がひとつ飛び出した。
「定本さん」
ばたばたと蓼科先生が職員室から出てきた。紙袋と大量の本を抱えていた。重そうなので、「手伝います」と紙袋を受け取る。
先生が、職員室のドアを後ろ手で閉めた。
「行こうか」
「はい」
図書室は、特別棟の三階の端にある。職員室から、ちょっと遠い。渡り廊下を通り、人気のない階段を上る。前を歩く先生の、首の後ろで束ねられた茶色っぽい髪が、尻尾みたいに左右に揺れている。
蓼科先生は、いつもロングスカートを穿いている、メイクの薄い、国語の先生だ。司書教諭を兼任していると知ったのは、昨日のこと。
「蒸し暑いですね」とわたし。階段を上るだけで、熱が身体の周りに薄い膜を張ったみたいにまとわりつく。「すごく夏って感じ」
「夏は夜、とも言えないね、最近は」と先生。「陸上部は大変だ。熱中症に気を付けてね」
「今頃テント出してると思います」わたしは先生の背中に尋ねる。「本、直りますか?」
「直ります。ページが外れるくらい、よくあることだから」先生が首だけで振り向く。「珍しいね。定本さんが読書なんて」
「読書、似合わないですか?」
「まさか!」軽やかな声だ。「趣味に、似合う似合わないはありません。好きでやるものだからね。どんどん借りて、どんどん読んで」
三階の端に着いた。湿気がどんより溜まった廊下の突き当たりに、ペンキの剥げかけた白いドアがある。ドアの上には、『図書室』と彫られた金属製のプレートが打ち込んである。そのドアの右の壁には、司書室のプレートを掲げる白いドア。
蓼科先生が司書室のドアに手をかけたとき、ブー、ブー、とバイブレーションの音が響いた。
先生のスマホだった。
「ごめん、定本さん、ちょっといい?」
わたしが頷くと、先生はスマホを耳に当てて、「はい」と階段のほうへ戻っていく。「ああ、その件は、はい、パーカッションが……」と、吹奏楽部に関する電話だったみたい。
取り残されたわたしは、司書室のドアの窪みに手をかけた。そこで、微かな音を聞いた。パチパチパチと、何かを打っている、不規則な音。パソコンのキーボードを打つ音だ。ドアの向こうから聞こえる。
引き戸を開けた。
* * *
明日は風香と類が初めて出会うシーンをお届けします。
性格も好きなことも正反対な2人がどのように仲良くなっていくのか。早く続きが知りたい方はぜひ書籍をチェックしてみてください。
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白紙を歩く
天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。
ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。
立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。