ハイエースで足をたたみ岡山を目指す。物販のダンボールと機材の隙間や、前の座席の角など各々の工夫で置かれる足のポジショニングは幾たびも反復され、それによりたどり着いた熟練の技を感じさせる。バンドワゴンの移動でもう何度この高速道路を通っただろう。いつも渋滞する海老名、果てしなく静岡は長く、四日市の工場地帯に夕暮れが重なるとうっとりと瞼は重くなり、車内DJが役割のわたしはお決まりのようにFenneszのEndless Summerをかける。もはや立ち寄ったことのないパーキングは無く、昼飯はメニューを見なくてもバンを降りた瞬間に決めることだってできる。
岡山に着き、繁華街まで散歩してラーメンを食べ、コンビニで缶ビールを買う。固定されていた足をほぐし、空気にさらして解放を促す。月はうんと大きく、空気が幾分か澄んでいる。美星町という星の名所で行われるSTARS ON FESTIVALに出演するために前日入りした。ほとんどのアーティストは新幹線で当日入りして当日に帰るらしいが我々のようなバンドは前日入り、当日泊まり、そして翌日帰るので三日間必要になる。なんと不都合な形態だろうと体の筋を伸ばしながら思った。
わたしたちの先輩にIDOL PUNCHの沖島二郎という漫画から出てきたような人がいて、GEZANを始めた頃、何度も岡山ペパーランドに呼んでくれた。箱貸しの岡山大学のバンドサークルの発表会に何故か我々だけ外部から差し込まれて、他は全てコピーバンドで三時間押し。「あいつら誰?」の凄まじいアウェーの中で演奏したことや、足の裏のような匂いの部屋に泊めてもらい朝まで飲んだことなど、思い出は今もはっきりと呼吸している。
STARS ONに会場入りすると、漫画そのものを生きる主催の丹正さんとキャプテンが出迎えてくれた。ちょうど七尾旅人さんがリハをしていて、演奏が始まると、この祭の舞台監督もしていた二郎さんのことをMCで触れカバーを始めた。拳を固めて、最前の客席群に割り入っていく友人の姿が遠くに見える。二郎さんは亡くなって三年。岡山に入ると幻影をひしひしと感じるのは周りにいる人たちの中に住みついた過去になることのない二郎さんがいるからだろう。そんなわけでわたしは二郎さんとの再会を楽しみにいつも岡山に入る。絶え間ない現実の中でわたしたちは見えないものを許す方法を忘れやすく、そんな手触りを確認し合う祭は、何者かが人に残してくれた尊い手段なのだと思う。
林間学校のような宿舎での打ち上げは凄まじく、学級を特異なトークでぶん回していたであろう電気グルーヴという覇者の蜜に吸い寄せられるようにスタッフや演者が話を聞いていた。丹正さんとピエール瀧さんと中浴場に入り、日本酒を浴びるように飲んだ。打ち上げは他の演者が帰った後も朝まで続き、翌日、甚大なダメージを負った我々は引き攣る薄目を笑顔に移し、別れを告げて大阪に向かう。バンの窓を開けると迎え入れた風が心地よく、二日酔いをさましながら進んだ。月が明るすぎたせいで、今年も星が見えなかった。
大阪に移動し、味園ユニバースに向け、火鍋屋で細川雅代(あかいぬ)とミーティングをする。わたしやギターのイーグルがまだバンドを始める前からの先輩で、全感覚祭ではフードをやったり、映画i aiのケータリングをしたり、わたしたちの紆余曲折と伸縮、焼き切れる様をずっと見てきた一人だと思う。わたしの主催したNO WARのデモの時、資材などの重いものを持てず役に立たなかったという反省から筋肉に目覚めたそうで、日々変化して開いていくあかいぬの表情に希望を見て、ボディビルディングとして共演をお願いをした。
本番前の楽屋で、体の最終調整をしている横でアコギを弾いていると「真人、ギターうまなったなあ」とあかいぬがこぼした。久しくそんな角度から言葉を聞くことがなかったから、新鮮な懐かしさが内側に海のように広がる。懐かしさは何故かいつも塩辛い。
公演の本番、裏方として、いつも影から支えてくれたあかいぬが、真っ直ぐに観客と対峙する姿を見て、静かに感動していた。始まりを知っている人と空間を共有する時、最初の気持ちが自然と引き出される。難波ベアーズの階段、カーペットのシミ、潰れたマイクのコーンと真空管アンプの燃える匂い、そんな愛しい光景を憧れ、駆け抜けていたわ目つきの悪いわたしを最新の曲たちで迎えるのだから当然のように矛盾は磁場を歪ませる。そこはもう発光と発汗が行き来するSFの世界だ。わたしたちは記憶を燃料に時間旅行をしている。
「初期のメンバーの頃の演奏がいい」とか様々なバンドで頻繁に語られる声には聞き飽きてるけど、ある意味では当然だとも思う。たとえ誰かが同じ曲を同じように上手にプレイしたとしても、人という記憶装置が持っている力には簡単には抗えない。当然歌い手であれば、周囲から放たれるサインを避けて歌うことなんてできないから、目には見えない関係性がいつまでも影響を与えあう世界のほとりで釣り糸を垂らし、ただ吹いた風に煽られ続けるのだろう。
つくづく、わたしたちは音の配列を見せているのではなくて、その配列に引き出されるたましいの形状を見せているのだと思うよ。
終演後、ライブハウスの外に昔の友達が集っている。脱退してから会ってなかったメンバーの数年ぶりの再会やお互いの進路を語り合う複数の小さなコミュニティが自由に存在している。もうとっくに誰の会であるとかは関係なく、自立したドキュメンタリーが時折、不意に交錯する天体を思う。
打ち上げは味園ビルの上で行い、皆それぞれのタイミングで帰路につく。眠る前に浮かぶ感想が同じはずもない。わたしの胸にはあたたかい記憶が渦巻いていた。人差し指をいれ、その円に沿って記憶を練る。こんな日もすぐに思い出になり、わたしたちは記憶の海にまた流されていくのか。
会えなくなったことにより発生した輪郭をなぞり、再会を探す旅。
思い出とゴーストは似ている。どちらも輪郭は持てずそれでいて確かに存在し、今の自分に影響を及ぼす。どうして死者の話ばかりするのだろう? わたしがその世界に惹かれていて、その無重力の庭に呼ばれているのは間違いない。それでいてまだ、ここにとどまる色んな理由を欲している。
誰かに手渡した分だけ存在できるのなら、わたしは旅を続けなくちゃいけない。今、わたしは今年二回目の上海の空港に着いたところ。新しい記憶に会いにきた。集めてきた秘密を交換して、目を瞑って一気に血に参入する。
*マヒトゥ・ザ・ピーポー連載『眩しがりやが見た光』バックナンバー(2018年~2019年)