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白紙を歩く

2024.10.24 公開 ポスト

#2「マラソンは友情破壊スポーツ」同級生の言葉に圧倒される17歳の女子高生ランナー鯨井あめ(作家)

鯨井あめさんの最新小説『白紙を歩く』は、人生の分岐点で交差する2人の女子高生の物語です。

本日は司書室で天才ランナーの風香と作家志望の類が出会うシーンをお届けします。(はじめから読みたい方はこちら

明戸類(高校2年)
小説家を目指している

*   *   *

室内は光っていた。眩しさに、わたしは目を細めた。

光のなかに、人のシルエットが浮かび上がっている。誰かいる。

眩しい光が正面の壁の長方形に収まり、目の奥のじんとした痺れが引いた。窓から差し込む夏の陽射しが、わたしの目を眩ませたらしい。部屋の中央には丸テーブルがあって、その上にはノートパソコンが載っていた。それを、シルエットの人物がパタンと閉じた。女子生徒だった。彼女は警戒の眼差しでわたしを睨んでいる。くるくるの巻毛にフレーム付きの眼鏡。半袖の白シャツを着て、下はスラックス。胸元の刺繍がオレンジだから、同学年だとわかる。

「ああ」とわたしの後ろから司書室を覗いたのは、蓼科先生だ。「明戸さん、また入り浸ってる」

「ノック、なかったんだけど」明戸さんと呼ばれた彼女は、自分の部屋に立ち入られたみたいに、つっけんどんな口調で言った。「常識なさすぎ」

わたしは、はっとする。

「ごめんなさい。忘れてた」

先生がドア横のスイッチを押した。パッと電気が点いて、ドア付近が明るくなる。

司書室は狭くて圧迫感があった。背の高い棚が壁に沿って置かれ、床には段ボール箱が雑多に積まれている。わたしが丸テーブルの上に通学鞄と紙袋を置くと、埃が舞ってきらきらと光った。なんというか、物置っぽい。司書室に入ったのは初めてだ。図書室に来ること自体が二回目。

隣接している図書室は、埃っぽくて、かび臭くて、暗幕が外れかけていて、校内でも特別人気がない。高校から徒歩数分の市立図書館のほうが、明るくて、デザインが洗練されていて、飲食スペースがあって、トイレが綺麗だ。自習室も広くて、お喋り可能なミーティングスペースもあって、コンビニに近いから、みんなそっちを使う。

「冷房くらい点けなよ」と先生がスイッチを入れた。ごお、と天井から音がする。「明戸さん、鍵の貸出は台帳に記入した?」

明戸さんは、ふん、と横を向いた。「したに決まってるでしょ」

「予備を使ったんだよね?」

「いいじゃないですか、別に、どっちでも。ここは学校。生徒のための場所でしょ。いまのうちに自由に使わせてくださいよ。先生こそ、吹奏楽部は?」

「今日はこっちが優先。あとあなた、そろそろ出席日数やばいよ」

「ちゃんと計算してるんで、大丈夫です」

「サボりに手間暇かけるより、課題を真面目にこなしてください」

「そのうちやります」

明戸さんは窓際の長テーブルに移動した。わたしたちに見えない角度でノートパソコンを開き、タイピングを再開する。何をしているんだろう。

先生が棚の引き出しをごそごそと漁り、「あれ?」と言った。「定本さん、そっちの段ボール箱かケースに、工作マット入ってない?」

わたしは付近を漁った。「ないです」

「あー、廃棄しちゃったかな」

「小さいやつなら」明戸さんが口を挟んだ。「そのカゴに、あったけど」

言われた通り、プラスチックボックスから緑色の工作マットが出てきた。

「さすが明戸さん」と蓼科先生。「司書室の番人ですね」

「その番人から居場所を奪おうとしてるくせに」

「居場所?」とわたし。

「もうすぐ図書室の改修工事が始まるんです」と蓼科先生。「司書室も立ち入り禁止になる」

明戸さんは不機嫌そうだ。

「改修工事したところで弱小図書室に変わりはないでしょ。誰も彼も本に興味がない。図書委員ですら寄り付かない。だからあたしが業務をすることになる。委員でもないのに」

「委員じゃないのに、手伝ってるんだ。すごいね」

わたしが言うと、明戸さんはなぜか背筋を正した。「あ、いや、ま、うん、別に、めんどくさいけどね」と、ぶつぶつ。「あたしは本が好きだから、別に、これくらい」

その間に蓼科先生は、丸テーブルの上を軽く片して、古新聞を敷き、その上に工作マットを置いて、作業スペースを確保した。傍らに、水糊と筆、ハサミやカッターナイフ、白っぽいテープなど、文房具を並べていく。そして工作マットの上に、一冊の分厚い本を置いた。本は色褪せて黄ばんでいる。

「『太宰治全集』だ」明戸さんが言った。

「ページが外れたの」わたしが応えた。「でも、直せるって先生が」

「太宰、好きなの?」

「『走れメロス』を読んでみたくて」

「中学の教科書があるでしょ?」

「捨てちゃったよ。内容も憶えてないんだ。文字を読むとすぐに眠くなる」

再チャレンジした今回も、勉強机に向かって本を開き、目次で『走れメロス』を探してページをめくって、冒頭の数行を読んだあたりで、記憶が薄れている。

「それで、うとうとしてたらページを引っ張っちゃって、外れちゃった」

「わざわざ全集を借りなくても、ネットで検索するとか、文庫を借りたらよかったのに」

「文庫? って、何?」

「もしかして、文庫本と単行本の違いがわからないタイプ?」明戸さんは、傍のパイプ椅子に置いてあった通学鞄から本を取り出した。「これが文庫。ちなみにこれは『夜間飛行』ね。サン=テグジュペリが書いた、南米の、夜間の郵便飛行の話。いい本だよ」

「それって、本屋さんに並んでるやつだよね。文庫って言うんだ」

“国語の教科書 走る話”で検索して出てきた題名と作者名を求めて、慣れない図書室をうろうろしているうちに、作者の名前が記された分厚い本をたくさん見つけた。一冊一冊が古くて重そうだったけど、これしかないのかも、と思って借りた。

「『走れメロス』も文庫なの?」

「文庫で出てるよ。ちなみに文庫っていうのは、このサイズの本のことね。ほんとに知らないの? そんなことある?」

「自分の常識が、他人の常識とは思わないように」蓼科先生の注意は穏やかだ。「ふたりとも知り合いだったんですね」

わたしは首を振る。初対面だ。一方で明戸さんは「まあ」と言う。「接点ないけど、同学年の定本さんっていえば、有名人だよ」

「そうなの?」とわたし。

「陸上の人でしょ。長距離とかマラソンとかで表彰されてる」明戸さんは鼻で笑った。「すごいよね。マラソンを自ら選ぶなんて。あれって、友情破壊スポーツじゃん」

「友情破壊……」

「明戸さん」蓼科先生の窘める声。

「冗談です」と明戸さん。「でも、一緒に走ろうね、って約束して、それがすぐに破られるでしょ。裏切りを生む競技。間違ってないですよ」

「だからって、言っていいことと悪いことがあります」

「責めるなら、あたしにマイナスイメージを植え付けた歴代の友だちモドキと体育の授業にしてください」

一緒に走ろうね。そんな約束をしたことがなかったので、明戸さんの主張がピンとこなかった。競技中は、先頭で独走か、先頭集団に紛れつつ自分のペースで走っている。体育の授業や、学内行事のマラソン大会でも同じだ。誰かに合わせたことはないし、合わせようと声をかけられたこともない。ついていくね、と言われたことはある。でも誰もついてこなかった。いつもひとりでフィニッシュ。

友情破壊スポーツ、という言葉が、じんわりと心の内側に広がっていく。

*   *   *

初対面の風香を突き放す類。果たして2人は仲良くなれるのでしょうか。

明日はこの物語で最も重要なキーワード、「エウレカ」について語るシーンをお届けします。
続きが読みたい方はぜひ書籍をチェックしてみてください。

関連書籍

鯨井あめ『白紙を歩く』

天才ランナーと小説家志望。人生の分岐路で交差する2人の女子高生の友情物語。 ただ、走っていた。 ただ、書いていた。 君に出会うまでは――。 立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。 「あなたをモデルに、小説を書いてもいい?」 ケガをきっかけに自分には“走る理由”がないことに気付いた陸上部のエース、定本風香。「物語は人を救う」と信じている小説家志望の明戸類。梅雨明けの司書室で2人は出会った。 付かず離れずの距離感を保ちながら同じ時間を過ごしていくうちに「自分と陸上」「自分と小説」に真剣に向き合うようになっていく風香と類。性格も好きなことも正反対。だけど、君と出会わなければ気付けなかったことがある。 ハッピーでもバッドでもない、でも決して無駄にはできない青春がここに“在る”。

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白紙を歩く

天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。

ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。

立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。

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鯨井あめ 作家

1998年生まれ。兵庫県豊岡市出身。兵庫県在住。2015年より小説サイトに短編・長編の投稿を開始。2017年に『文学フリマ短編小説賞』優秀賞を受賞。2020年、第14回小説現代長編新人賞受賞作『晴れ、時々くらげを呼ぶ』(講談社)でデビュー。他の著書に『アイアムマイヒーロー!』『きらめきを落としても』『沙を噛め、肺魚』(いずれも講談社)がある。

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