鯨井あめさんの最新小説『白紙を歩く』は、人生の分岐点で交差する2人の女子高生の物語です。
本日は司書室で天才ランナーの風香と作家志望の類が出会うシーンをお届けします。(はじめから読みたい方はこちら)
* * *
室内は光っていた。眩しさに、わたしは目を細めた。
光のなかに、人のシルエットが浮かび上がっている。誰かいる。
眩しい光が正面の壁の長方形に収まり、目の奥のじんとした痺れが引いた。窓から差し込む夏の陽射しが、わたしの目を眩ませたらしい。部屋の中央には丸テーブルがあって、その上にはノートパソコンが載っていた。それを、シルエットの人物がパタンと閉じた。女子生徒だった。彼女は警戒の眼差しでわたしを睨んでいる。くるくるの巻毛にフレーム付きの眼鏡。半袖の白シャツを着て、下はスラックス。胸元の刺繍がオレンジだから、同学年だとわかる。
「ああ」とわたしの後ろから司書室を覗いたのは、蓼科先生だ。「明戸さん、また入り浸ってる」
「ノック、なかったんだけど」明戸さんと呼ばれた彼女は、自分の部屋に立ち入られたみたいに、つっけんどんな口調で言った。「常識なさすぎ」
わたしは、はっとする。
「ごめんなさい。忘れてた」
先生がドア横のスイッチを押した。パッと電気が点いて、ドア付近が明るくなる。
司書室は狭くて圧迫感があった。背の高い棚が壁に沿って置かれ、床には段ボール箱が雑多に積まれている。わたしが丸テーブルの上に通学鞄と紙袋を置くと、埃が舞ってきらきらと光った。なんというか、物置っぽい。司書室に入ったのは初めてだ。図書室に来ること自体が二回目。
隣接している図書室は、埃っぽくて、かび臭くて、暗幕が外れかけていて、校内でも特別人気がない。高校から徒歩数分の市立図書館のほうが、明るくて、デザインが洗練されていて、飲食スペースがあって、トイレが綺麗だ。自習室も広くて、お喋り可能なミーティングスペースもあって、コンビニに近いから、みんなそっちを使う。
「冷房くらい点けなよ」と先生がスイッチを入れた。ごお、と天井から音がする。「明戸さん、鍵の貸出は台帳に記入した?」
明戸さんは、ふん、と横を向いた。「したに決まってるでしょ」
「予備を使ったんだよね?」
「いいじゃないですか、別に、どっちでも。ここは学校。生徒のための場所でしょ。いまのうちに自由に使わせてくださいよ。先生こそ、吹奏楽部は?」
「今日はこっちが優先。あとあなた、そろそろ出席日数やばいよ」
「ちゃんと計算してるんで、大丈夫です」
「サボりに手間暇かけるより、課題を真面目にこなしてください」
「そのうちやります」
明戸さんは窓際の長テーブルに移動した。わたしたちに見えない角度でノートパソコンを開き、タイピングを再開する。何をしているんだろう。
先生が棚の引き出しをごそごそと漁り、「あれ?」と言った。「定本さん、そっちの段ボール箱かケースに、工作マット入ってない?」
わたしは付近を漁った。「ないです」
「あー、廃棄しちゃったかな」
「小さいやつなら」明戸さんが口を挟んだ。「そのカゴに、あったけど」
言われた通り、プラスチックボックスから緑色の工作マットが出てきた。
「さすが明戸さん」と蓼科先生。「司書室の番人ですね」
「その番人から居場所を奪おうとしてるくせに」
「居場所?」とわたし。
「もうすぐ図書室の改修工事が始まるんです」と蓼科先生。「司書室も立ち入り禁止になる」
明戸さんは不機嫌そうだ。
「改修工事したところで弱小図書室に変わりはないでしょ。誰も彼も本に興味がない。図書委員ですら寄り付かない。だからあたしが業務をすることになる。委員でもないのに」
「委員じゃないのに、手伝ってるんだ。すごいね」
わたしが言うと、明戸さんはなぜか背筋を正した。「あ、いや、ま、うん、別に、めんどくさいけどね」と、ぶつぶつ。「あたしは本が好きだから、別に、これくらい」
その間に蓼科先生は、丸テーブルの上を軽く片して、古新聞を敷き、その上に工作マットを置いて、作業スペースを確保した。傍らに、水糊と筆、ハサミやカッターナイフ、白っぽいテープなど、文房具を並べていく。そして工作マットの上に、一冊の分厚い本を置いた。本は色褪せて黄ばんでいる。
「『太宰治全集』だ」明戸さんが言った。
「ページが外れたの」わたしが応えた。「でも、直せるって先生が」
「太宰、好きなの?」
「『走れメロス』を読んでみたくて」
「中学の教科書があるでしょ?」
「捨てちゃったよ。内容も憶えてないんだ。文字を読むとすぐに眠くなる」
再チャレンジした今回も、勉強机に向かって本を開き、目次で『走れメロス』を探してページをめくって、冒頭の数行を読んだあたりで、記憶が薄れている。
「それで、うとうとしてたらページを引っ張っちゃって、外れちゃった」
「わざわざ全集を借りなくても、ネットで検索するとか、文庫を借りたらよかったのに」
「文庫? って、何?」
「もしかして、文庫本と単行本の違いがわからないタイプ?」明戸さんは、傍のパイプ椅子に置いてあった通学鞄から本を取り出した。「これが文庫。ちなみにこれは『夜間飛行』ね。サン=テグジュペリが書いた、南米の、夜間の郵便飛行の話。いい本だよ」
「それって、本屋さんに並んでるやつだよね。文庫って言うんだ」
“国語の教科書 走る話”で検索して出てきた題名と作者名を求めて、慣れない図書室をうろうろしているうちに、作者の名前が記された分厚い本をたくさん見つけた。一冊一冊が古くて重そうだったけど、これしかないのかも、と思って借りた。
「『走れメロス』も文庫なの?」
「文庫で出てるよ。ちなみに文庫っていうのは、このサイズの本のことね。ほんとに知らないの? そんなことある?」
「自分の常識が、他人の常識とは思わないように」蓼科先生の注意は穏やかだ。「ふたりとも知り合いだったんですね」
わたしは首を振る。初対面だ。一方で明戸さんは「まあ」と言う。「接点ないけど、同学年の定本さんっていえば、有名人だよ」
「そうなの?」とわたし。
「陸上の人でしょ。長距離とかマラソンとかで表彰されてる」明戸さんは鼻で笑った。「すごいよね。マラソンを自ら選ぶなんて。あれって、友情破壊スポーツじゃん」
「友情破壊……」
「明戸さん」蓼科先生の窘める声。
「冗談です」と明戸さん。「でも、一緒に走ろうね、って約束して、それがすぐに破られるでしょ。裏切りを生む競技。間違ってないですよ」
「だからって、言っていいことと悪いことがあります」
「責めるなら、あたしにマイナスイメージを植え付けた歴代の友だちモドキと体育の授業にしてください」
一緒に走ろうね。そんな約束をしたことがなかったので、明戸さんの主張がピンとこなかった。競技中は、先頭で独走か、先頭集団に紛れつつ自分のペースで走っている。体育の授業や、学内行事のマラソン大会でも同じだ。誰かに合わせたことはないし、合わせようと声をかけられたこともない。ついていくね、と言われたことはある。でも誰もついてこなかった。いつもひとりでフィニッシュ。
友情破壊スポーツ、という言葉が、じんわりと心の内側に広がっていく。
* * *
初対面の風香を突き放す類。果たして2人は仲良くなれるのでしょうか。
明日はこの物語で最も重要なキーワード、「エウレカ」について語るシーンをお届けします。
続きが読みたい方はぜひ書籍をチェックしてみてください。
白紙を歩く
天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。
ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。
立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。