女子高生2人の友情を描いた、鯨井あめさんの最新小説『白紙を歩く』。
本日は、この物語で最も重要なキーワード「エウレカ」について語るシーンをお届けします。(はじめから読みたい方はこちら)
* * *
「先生って、製本できるの?」
明戸さんの質問に、先生は肩をすくめた。「自分でやるのは、今日が初めて」
「みえこさんに頼もうか?」
「ありがとう。でも、何事もチャレンジですから」
先生は、『太宰治全集』を開いた。ページを丁寧にめくり、外れてしまった一枚を見つけて、ページの番号と文章のつながりを確認した。
明戸さんが近寄ってきて、ページの文字に目を走らせる。「激怒してるね。年季の入った全集だなぁ。日焼けしすぎ」
「これって、高価なものなの?」とわたし。
「それなりの値段ではあるよ」と明戸さん。やっぱりそうなんだ。
一昨日の夜を思い出すと、いまでもひやりとする。シューズを擦り減らす経験は多くても、物を不注意で壊す経験は少ないから、ページが外れた衝撃は大きかった。「学校の備品を弁償する方法を教えてください」と担任の先生に相談すると、蓼科先生に話を通してくれた。そして「それくらいなら修理で済みますよ」と言ってもらえたのだ。
「さて」
先生は、プラスチックの水糊ケースの蓋をきゅぽんと開けた。細筆の先に糊を付けて、外れたページの薄い背に塗っていく。わたしはその手元をじっと眺める。離れたものをくっつけるには糊を使う─原始的だ。
「テープで貼るのは、だめなんですか?」
「セロハンは、だめ」明戸さんが答えた。「色が付くし、劣化が早いし、紙が傷むから。紙テープなら使えるけど、ページ一枚の修復なら糊で充分」
「ばらばらになってたら、無理だったよ」先生は苦笑して、余分な糊をウェットティッシュで拭き取った。そして糊を塗ったページを本に差し込み、本を閉じて、上から両手でぐっと押さえる。さらに輪ゴムで固定して、司書室の本棚にあった分厚い洋書を上に重ねた。
「これでよし。明日まで、このままにしておいてください」
「終了ですか?」
「終了です」
わたしはほっとする。すぐに修理が済んでよかった。
「それ、糸綴じですよね?」明戸さんが、『太宰治全集』の背表紙を指した。「またすぐ外れそう」
「そうなったら、いよいよ廃棄かな」
「本を捨てるってこと? 全集のうちの一冊なのに? 歯抜けになるじゃん」
「じゃあ、明戸さんが引き取る?」
「いや……書庫に入れるのは?」
「それもいいけど、ここは博物館ではありませんからね。破損が激しくて誰も借りないなら、置いておいても場所を取るだけでしょう。いつかは捨てないと」
たしかに、と思ったわたしの隣で、明戸さんの唇がむっと尖がる。「本を焼く人間は、やがて人間も、って言いますよ」
「古紙回収でリサイクルする人間は?」
「……ハイネに訊いてください」
「ハイネって誰?」とわたし。
「ドイツの詩人」と明戸さん。「蔵書を捨てなくてもいい方法、ないんですか?」
「人任せにしないで、自分で考えて」と先生。「自分でエウレカしてください」
「エウレカする?」とわたし。
「我発見セリ」と明戸さん。「アルキメデスって数学者が、お風呂に浸かったときに溢れ出たお湯を見て、水を使って質量を計測する方法を思いついて、叫んだ言葉」
「詳しいなぁ……」やっぱり、本を読んでいる人は博識だ。
明戸さんは唇を尖らせたまま、先生に言う。「アルキメデスは、天才だったから発見できたんです。凡人が考えたところで、車輪の再発明になるだけでしょ。意味ある?」
「ありますよ。考えて、考えて、自分なりの答えを見つける。最終的に自分を納得させるのは、自分ですからね。自分のために、思考し続けるんです」
「自己責任論ってこと? あたしの嫌いなやつだ」
「先生が言いたかったのは、思考はやがて、自分になっていくってことです」
「じゃあそう言えばいいじゃん。回りくどいなぁ」
「回りくどさも、ときには大切」
先生は小さなシンクで筆先を洗い流し、文房具を紙袋に入れて、棚の引き出しに仕舞った。わたしは古新聞をまとめて、備え付けのごみ箱に入れる。片付けはあっという間だ。
「では、先生は部活に行きます。明戸さん、司書室の鍵は、職員室に戻すように」
「わかってます」
「ふたりとも、気を付けて帰ってね」
ドアがトンと閉まった。明戸さんが丸テーブルに戻り、ノートパソコンを開いて、タイピングを開始した。
* * *
これから本書を読む方はぜひ、「エウレカ」という言葉を憶えておいてください。
明日は風香と類がお互いを知っていくシーンをお届けします。早く続きが読みたい方はこちらをチェック
白紙を歩く
天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。
ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。
立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。