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白紙を歩く

2024.10.25 公開 ポスト

#3 17歳の女子高生がはじめて知る、数学者・アルキメデスの言葉鯨井あめ(作家)

女子高生2人の友情を描いた、鯨井あめさんの最新小説『白紙を歩く』。

本日は、この物語で最も重要なキーワード「エウレカ」について語るシーンをお届けします。(はじめから読みたい方はこちら

*   *   *

「先生って、製本できるの?」

明戸さんの質問に、先生は肩をすくめた。「自分でやるのは、今日が初めて」

「みえこさんに頼もうか?」

「ありがとう。でも、何事もチャレンジですから」

先生は、『太宰治全集』を開いた。ページを丁寧にめくり、外れてしまった一枚を見つけて、ページの番号と文章のつながりを確認した。

明戸さんが近寄ってきて、ページの文字に目を走らせる。「激怒してるね。年季の入った全集だなぁ。日焼けしすぎ」

「これって、高価なものなの?」とわたし。

「それなりの値段ではあるよ」と明戸さん。やっぱりそうなんだ。

一昨日の夜を思い出すと、いまでもひやりとする。シューズを擦り減らす経験は多くても、物を不注意で壊す経験は少ないから、ページが外れた衝撃は大きかった。「学校の備品を弁償する方法を教えてください」と担任の先生に相談すると、蓼科先生に話を通してくれた。そして「それくらいなら修理で済みますよ」と言ってもらえたのだ。

「さて」

先生は、プラスチックの水糊ケースの蓋をきゅぽんと開けた。細筆の先に糊を付けて、外れたページの薄い背に塗っていく。わたしはその手元をじっと眺める。離れたものをくっつけるには糊を使う─原始的だ。

「テープで貼るのは、だめなんですか?」

「セロハンは、だめ」明戸さんが答えた。「色が付くし、劣化が早いし、紙が傷むから。紙テープなら使えるけど、ページ一枚の修復なら糊で充分」

「ばらばらになってたら、無理だったよ」先生は苦笑して、余分な糊をウェットティッシュで拭き取った。そして糊を塗ったページを本に差し込み、本を閉じて、上から両手でぐっと押さえる。さらに輪ゴムで固定して、司書室の本棚にあった分厚い洋書を上に重ねた。

「これでよし。明日まで、このままにしておいてください」

「終了ですか?」

「終了です」

わたしはほっとする。すぐに修理が済んでよかった。

「それ、糸綴じですよね?」明戸さんが、『太宰治全集』の背表紙を指した。「またすぐ外れそう」

「そうなったら、いよいよ廃棄かな」

「本を捨てるってこと? 全集のうちの一冊なのに? 歯抜けになるじゃん」

「じゃあ、明戸さんが引き取る?」

「いや……書庫に入れるのは?」

「それもいいけど、ここは博物館ではありませんからね。破損が激しくて誰も借りないなら、置いておいても場所を取るだけでしょう。いつかは捨てないと」

たしかに、と思ったわたしの隣で、明戸さんの唇がむっと尖がる。「本を焼く人間は、やがて人間も、って言いますよ」

「古紙回収でリサイクルする人間は?」

「……ハイネに訊いてください」

「ハイネって誰?」とわたし。

「ドイツの詩人」と明戸さん。「蔵書を捨てなくてもいい方法、ないんですか?」

「人任せにしないで、自分で考えて」と先生。「自分でエウレカしてください」

「エウレカする?」とわたし。

「我発見セリ」と明戸さん。「アルキメデスって数学者が、お風呂に浸かったときに溢れ出たお湯を見て、水を使って質量を計測する方法を思いついて、叫んだ言葉」

「詳しいなぁ……」やっぱり、本を読んでいる人は博識だ。

明戸さんは唇を尖らせたまま、先生に言う。「アルキメデスは、天才だったから発見できたんです。凡人が考えたところで、車輪の再発明になるだけでしょ。意味ある?」

「ありますよ。考えて、考えて、自分なりの答えを見つける。最終的に自分を納得させるのは、自分ですからね。自分のために、思考し続けるんです」

「自己責任論ってこと? あたしの嫌いなやつだ」

「先生が言いたかったのは、思考はやがて、自分になっていくってことです」

「じゃあそう言えばいいじゃん。回りくどいなぁ」

「回りくどさも、ときには大切」

先生は小さなシンクで筆先を洗い流し、文房具を紙袋に入れて、棚の引き出しに仕舞った。わたしは古新聞をまとめて、備え付けのごみ箱に入れる。片付けはあっという間だ。

「では、先生は部活に行きます。明戸さん、司書室の鍵は、職員室に戻すように」

「わかってます」

「ふたりとも、気を付けて帰ってね」

ドアがトンと閉まった。明戸さんが丸テーブルに戻り、ノートパソコンを開いて、タイピングを開始した。

*   *   *

これから本書を読む方はぜひ、「エウレカ」という言葉を憶えておいてください。

明日は風香と類がお互いを知っていくシーンをお届けします。早く続きが読みたい方はこちらをチェック

関連書籍

鯨井あめ『白紙を歩く』

天才ランナーと小説家志望。人生の分岐路で交差する2人の女子高生の友情物語。 ただ、走っていた。 ただ、書いていた。 君に出会うまでは――。 立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。 「あなたをモデルに、小説を書いてもいい?」 ケガをきっかけに自分には“走る理由”がないことに気付いた陸上部のエース、定本風香。「物語は人を救う」と信じている小説家志望の明戸類。梅雨明けの司書室で2人は出会った。 付かず離れずの距離感を保ちながら同じ時間を過ごしていくうちに「自分と陸上」「自分と小説」に真剣に向き合うようになっていく風香と類。性格も好きなことも正反対。だけど、君と出会わなければ気付けなかったことがある。 ハッピーでもバッドでもない、でも決して無駄にはできない青春がここに“在る”。

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白紙を歩く

天才ランナーと小説家志望。人生の分岐点で交差する2人の女子高生の友情物語。

ただ、走っていた。ただ、書いていた。君に出会うまでは――。

立ち止まった時間も、言い合った時間も、無力さを感じた時間も。無駄だと感じていたすべての時間を掬い上げる長編小説。

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鯨井あめ 作家

1998年生まれ。兵庫県豊岡市出身。兵庫県在住。2015年より小説サイトに短編・長編の投稿を開始。2017年に『文学フリマ短編小説賞』優秀賞を受賞。2020年、第14回小説現代長編新人賞受賞作『晴れ、時々くらげを呼ぶ』(講談社)でデビュー。他の著書に『アイアムマイヒーロー!』『きらめきを落としても』『沙を噛め、肺魚』(いずれも講談社)がある。

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