「自殺する人が一番馬鹿だ」
と、年齢よりもさらに幼く見える顔で彼は言った。
彼はまだ十三歳。友達の子供だ。夏休みを利用して、東京から山の中にある我が家に一人で遊びに来ていたのだった。
そのあまりにもあまりな言葉に驚いて、わたしは車の後部座席に座る彼の気配を伺った。バックミラー越しでは頭頂部しか見えなかった。つやつやとした黒髪に天使の輪が光っていた。
「って、お母さんが言ってた」
と続けて彼が言ったのを聞いて、ようやく少しほっとする。
母親が子供にそう教えるのは心情的に理解できる。親にとっての一番の恐怖は子供の死だ。しかもそれが自死だったとしたら。考えるだけでぞっとする。どんな言葉を使ってもどんな手段を使ってもそれを止めたいと思うだろう。
でも。それでも。何かがわたしの喉元に引っかかった。
それは、政治に関わる仕事をしている人たちについて話しているときのことだった。上司の不正を告発したがもみ消され抗議のために自殺した部下がいた、というニュースがカーラジオから流れていた。それについての彼の意見が「自殺する人が馬鹿だ」だったのだ。
「だって死んじゃったらもう戦えない」
彼の声はまっすぐだった。自分が正しいと信じている人の快活さがあった。そして本当のところ自分には関係のない話なのだという純粋な無関心が。わたしは次に続ける言葉が見つけられなくなる。そうしてそのまま会話は終わり、うやむやになった。
彼が帰ったあとも、その言葉についてずっと考えていた。
映画監督のジャン=リュック・ゴダールが安楽死を選んだとき、とても悲しかった。もっと映画を撮って欲しかったし、撮らなくても生きていて欲しかった。でもわたしの勝手な思いなど彼にとっては知ったことではない。人間の権利の中には、自分の命を好き勝手することすら含まれるのだろう。それに、ゴダールらしい人生だ、という納得感もどこかにあった。もう充分と思えたのだろうと、思った。
わたしはあるときまで人が自死を選ぶ理由は「生きるのがしんどいから」なのだと思っていた。体なのか心なのか環境なのか、とにかく「生きていたくない」からするものなのだと。けれどそれだけじゃないことをもう知っている。年齢を重ね、実際に死に近くなったからなのかもしれない。
「生きる」というのは「生き延びる」ことだ。毎日毎夜、近づいてくる死の気配から一歩だけ逃げる。その一歩が、年を取るたびにちょっとずつ小さくなっていく。そしてそのうちに追いつかれる。
背後に迫ってくる死を感じることなく生きられている人はすごい。本当はそのほうがいい。「生きる」はそんなに仰々しくなく気軽にできるものであるほうがいいのだから。
前述の十三歳の彼に、今度会ったらもう少しきちんと話をしてみようかな、と思う。なんだか怖いけれど。だってわたしも十代のときは、もっと生きることも死ぬことも真剣に考えていた。
でもこれだけは伝えたい。
「自殺は馬鹿な人がするもの」ではない。
人を「自殺させる世界」が馬鹿なのだ。
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愛の病
恋愛小説の名手は、「日常」からどんな「物語」を見出すのか。まるで、一遍の小説を読んでいるかのような読後感を味わえる名エッセイです。