将棋も羽生善治という棋士も知ってはいるけれど、本まではちょっと……と思う人にこそ薦めたい。私自身小さい頃に囲碁をやっていたけれども、将棋のルールは全くわからない。そして羽生の名は知っているが、彼の偉業がどんなに凄いものなのか考えたことがなかった。でも、著者の書くノンフィクションが好きで本書も手にすると、たちまち引き込まれていった。
将棋がひとりでは指せないように、羽生ひとりだけを取り上げたのではこれだけのストーリーは決して紡げなかっただろう。羽生が奨励会の門戸を潜ってから棋士として過ごす約40年、2000局を超す対局の中から名対局と言われているいくつかを取り上げつつ、対戦相手となった棋士を中心に、新聞記者、師らの視点を借りて物語は進む。彼らの将棋との出会いから始まり、向き合い方、またその人となりまでもが書かれており、どちらかと言うと羽生本人のそれよりも彼らの方の印象が残るほどだ。
例えば第3章。人工知能=AIを搭載した将棋ソフトが2000年代の初めに登場し、将棋の世界を巨大な変化の波が襲った。人間同士の対局が基本の世界において、AIソフトを用いて研究するか否か。現在では当たり前になったとはいえ、それ以前からキャリアを積んでいる棋士にとってAIの進化は大きな障壁となった。そのAIに対して、羽生が向き合っただろうとされる時期は記されているけれど、具体的なことは語られず、別の人物に視点を置いて書かれている。それが2014年の王座戦において、44歳の羽生からタイトル奪取を狙う24歳の挑戦者、豊島将之だ。関西棋界のホープと言われながら、なかなかタイトルを手にすることができないでいた豊島はこの時もギリギリの戦いで敗れてしまう。しかしこの敗北をきっかけに、長きにわたり積み上げてきた研究スタイルを改め、自分を変えるために別の道=AIとの共存を選んだ。この決断が、棋士にとっていかに困難か。幼少期に豊島が将棋を始めるきっかけを作ってくれた恩師ともいうべき人物との出会いから、2018年に再び羽生と対戦することになった棋聖戦までの経緯がじっくりと描かれている。この章の最後、豊島から勝利の報告を受ける恩師にこみ上げる感情は、同じ熱を持って私たち読者にもじんと伝わってくるはずだ。
敗北によって、棋士の中に生まれる決意がある。本書で書かれる対局は、すべてが羽生にとって良い結果となったものばかりではない。でも、そんな時こそ、羽生は首を傾げたりしながらも、どこかに愉悦の雰囲気を残している、という描写が印象に残る。勝敗を超えたところに何かを見いだしているからこそ、今の時代にあってなお特別なのだろう。将棋の盤を中心に交わった多くの人のなかで、羽生善治という存在がより鮮明に浮かび上がってくるのだった。
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