TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演で話題! 世界131ヵ国を裁判傍聴しながら旅した女性弁護士による、唯一無二の紀行集『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)より、イタリア・トリノでの旅をお届けします。
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法廷内の「縦長タッパー」
山の中腹にあるいかにも貴族の邸宅といった雰囲気のヴィラ・レストランには、広々とした庭がついている。庭の端まで歩くとそこには天蓋付きのソファがあり、トリノの町がまるごと見下ろせた。川の向こうには、その朝に足を運んだ裁判所もあるはずだった。裁判所に行かなければここにも来なかったと思いながら、私はスパークリングワインをぐいっと飲み干した。
午前中に裁判所に行き、ランチはイータリーでパスタを食べる。フィアットの自動車博物館と、国立映画博物館をはしごして、ポー川沿いを散歩する。締めは、山の中腹にあるヴィラ・レストランでふるまわれる、シェフのお任せコース。それが、その日の私の「トリノ観光」であった。
裁判は朝10時に始まった。トリノの裁判所は、庭をはさんで長い建物が2棟向かい合う形。両翼の廊下に沿ってずらっと並ぶのが法廷だ。私は受付で刑事裁判のスケジュールを教えてもらうと、重い扉をギィと開いて目当ての法廷に入った。法廷の扉はどの国も重い。
どこにでもあるシンプルな法廷だった。傍聴席の前に柵があり、1段高い場所に裁判官の座る法壇がある。裁判官の後ろの壁にはピエモンテ州のものと思われる旗と、「法は万人に対し平等(La legge uguale per tutti)」という言葉。その足元、向かって左が検察官席で、右が弁護人席だった。弁護人の隣には法廷通訳とおぼしきお姉さんが立っている。
いかにも普通の法廷だが、その中でただひとつ、目を引いたものがあった。向かって右隅にあるガラスの囲いで覆われた一角だった。囲われた空間は細く高く、「まるで1人乗りのエレベーターだ、これは」と私は思った。「囲われた空間」は並んで2つあり、1つは壁とつながっていて、後ろに扉がある。もう1つはどこにもつながっていない。入口は1つ。人が1人立てるだけの、細く、狭い、密閉空間だ。縦長のタッパーに見えてきた。
その中にペドロという名の被疑者が立って、怒鳴っていた。彼はアフリカ系の外見をしていて、白いランニングを着ていた。イタリア語と英語のちゃんぽんで話し、英語のときは法廷通訳のお姉さんがすぐさまイタリア語に訳す。私はとぎれとぎれにメモを取る。
「あなたは紙を破いて侮辱的なことを言った。それは本当ですか?」法廷通訳が聞いた。ペドロ氏は一言二言、早口のイタリア語で答えた。すると裁判官も何事かを言い、法廷通訳がふたたび訳した。
「では、あなたは彼を殴りませんでしたか?」
「いいえ!」ペドロ氏が英語で答える。
「あなたは飛びかかりましたか?」
「針を見て……走らないといけないと思ったんだ」
「あなたは怖かったのですか?」
「気分がよくなかった。だから病院へ行った」
そうペドロ氏が答えると、唐突に裁判官が立ち上がり、裁判官席のドアから外へ出ていった。裁判は中断となった。中断のあいだ、縦長タッパーの中にペドロ氏はじっと立っていた。疲れたのか、もう怒鳴ってはいなかった。ぼんやりとした視線がガラスに反射している。現場となった「病院」のことは分からなかった。何の病院だろう。よく分からないまま、私は直立不動のペドロ氏を、息を詰めてじっと見ていた。
何の裁判?
再開後の審理は一瞬で終わり、ペドロ氏は手錠をされたまま、先ほどまで立っていたタッパーその1からタッパーその2へと移った。タッパーその2の後ろにある扉が開けられると、ペドロ氏はこの部屋から出ていき、入れかわりに新しい被疑者が入ってきた。2人はタッパーの入口ですれ違った。
「身柄拘束を争う、勾留裁判だったわ」審理が終わってから、法廷通訳を追いかけ尋ねると彼女は教えてくれた。「何が争われていたの?」私が質問を重ねようとすると、「捕まったときのこと……」と答えながら、「もう裁判所を出ないといけないの」と法廷通訳の彼女はすまなそうに言った。それを見て、隣でたばこを吸っていた、頭をそり上げたスーツ姿の男性が、「僕が説明しようか?」と話しかけてきた。「さっき法廷の中にいたから」
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つづく(後編は11月17日公開予定です)
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ぶらり世界裁判放浪記
弁護士の原口さんは、ある日、事務所を辞め、世界各国放浪の旅に出ました。アジア・アフリカ・中南米・大洋州を中心に、訪れた国は、約131カ国。目的の一つが、各地での裁判傍聴でした。そんな唯一無二の旅を描いた『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)の試し読みをお届けします。