TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」出演で話題! 世界131ヵ国を裁判傍聴しながら旅した女性弁護士による、唯一無二の紀行集『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)より、イタリア・トリノの旅をお届けします。
(前編はこちら)
* * *
その男性は別件の審理のためにやってきた弁護士だった。法廷の外の廊下は屋根だけがついた半屋外で、関係者が何人かたまっている。すぐ近くに灰皿があり、一服する人もいた。
「さっきの被疑者は、覚せい剤所持と公務執行妨害のかどで捕まっていた。捕まったときに暴れたか、暴れなかったか、ということを争っていたらしいね」彼は説明を始めた。
「なるほど」
「イタリアの身柄拘束は、逮捕してから48時間以内に決めるのだけど」
「日本も警察では48時間。その後検察で24時間。合計72時間のあいだに決める」
「なるほど。今回君が見た事件では、勾留が決まっていたね。ここから20日間の取り調べがある。起訴された後にどういう審理が行われ、どう量刑が決まるかは、ケースしだい」
「というのは?」
「1つは、自白したら33パーセント刑罰が軽減されるというのがある。あとは、控訴しない場合には、検察側と弁護側が一緒に量刑を決めることがあるとかも。日本ではない?」
「ないなあ。あと、さっき法廷通訳がついていたよね?」
「うん、さっきの被疑者は移民だった。イタリア語もしゃべっていたけど」
その弁護士はアントニオと名乗った。私も自己紹介をした。
「イタリアの裁判はほかにも見に行くの?」彼は聞いた。
「ううん、今日だけ」私は答えた。「あとは普通に観光をするよ」
「トリノは初めて? いつまでいるの?」
そこから雑談になった。私はいまパートナーと一緒に半月ほどトリノに滞在していると答えた。
すると、「今晩、ごはんでもどう?」彼は言った。裁判所めぐりをしていて法曹関係者に連絡先をもらうのはよくあることだが、ごはんに誘われることはまずない。
「僕の幼なじみがオーナーシェフをしているレストランがあってね。山の中にあるヴィラ・レストランなんだけど」
「よさそう」私も興味を持った。
「今晩、貸し切りで予約を取っているんだ。僕とパートナーと、友達夫婦の4人が行くんだけど、あと2人増やせるから、もしよければ君たちも一緒にどう?」
急展開だ。ポー川沿いの広場で午後7時半に待ち合わせることになった。
古城のレストランで乾杯
時計を見ると午後7時を回っている。そのとき私たちは国立映画博物館の最上階で、天井に映るクラシック映画の断片を見ていた。ここはトリノでも有数の観光スポット。尖塔のある建物「ラ・モーレ(La Mole)」はトリノの町のシンボルにもなっている。
待ち合わせ時間が近づいているのに気づいて映画博物館を後にした。待ち合わせ場所の広場に着くとちょうど午後7時半。広場の前には金色の川が流れ、アーチ形の橋が架かっていた。夏の夕暮れに、さざなみひとつ見えない。アイスクリーム売りの声がして、私はバングラデシュの川沿いのチャイ屋さんを思い出す。
アントニオカップルが迎えに来てくれていた。山に入ると、小さな古城のような白い建物の壁が、夕日を浴びてキラキラと黄みがかって見える。
「いつ来てもすてき」と、アントニオのパートナーが言った。建物のわきにはらせん階段があり、西向きの庭園につづいていた。庭園からは町が一望できた。アントニオの友人・クラウディオとその妻もすでに来ていて、挨拶すると、「君、日本の弁護士なんだって? 僕も弁護士だ。よく来たね」と彼は言った。
天蓋付きソファに、私たちはどっかりと身体をあずけて、ヴェネト州産のスパークリングワインで乾杯する。「今日はお酒も好きなだけ飲んでいいからね。アントニオたちが来るといつもサービスするんだ」と、「幼なじみ」のオーナーシェフが来て飲み放題の旨を告げた。
夏の日は長い。ディナーの前にたっぷりとスパークリングワインを飲んだ。夕日が町に落ち、風がゆるんでくると、やっと私たちはソファから腰を上げて長テーブルにつき、お任せコースのディナーに舌鼓を打った。
「ワイナリー見学には行った?」ごはんを食べながら彼らは聞いた。
「チンクエテッレで行った」と私たちは答えた。チンクエテッレとはトリノから数時間のところにある、リグーリア州の海岸沿いの町だ。
「ピエモンテでも行きなよ」と彼らはたたみかけた。「僕たちはピエモンテ人のアイデンティティがあるから、こっちを勧めるよ」
ピエモンテ州の州都がトリノである。イタリアだって歴史をさかのぼると都市国家だったわけだし、地方ごとの「国意識」が強いのは当たり前なのかもしれない。
「僕は法廷弁護の仕事が多いから、今日みたいにけっこう裁判所に行くんだよね」アントニオが話すと、「僕のクライアントは、企業が多い」とクラウディオが応じる。「法廷の仕事は少ない。特に刑事弁護は大変なんだよね。いろいろな壁に当たるわりに、実入りは少ない」
「それは、日本も同じ。刑事弁護はそれだけではなかなか生計を立てられないから、担当する弁護士は苦労している」と私も話した。「最近は日本でも裁判員裁判が始まったこともあって、刑事事件をがっつりやる人も増えてきているけど」
「なるほどね。イタリアもそうだ、やっぱりそこには断絶があるんだ」アントニオも言った。「違う世界のことになっちゃっているのかもしれない……」
その断絶が可視化されているのが、法廷の一角にあるあの透明な箱だと私は思った。あれは、「被疑者・被告人の世界」と、「それ以外の人の世界」との隔たりの象徴のようにも見える。
彼らが裁判所の法廷の、透明な箱の中から出るのと同時に、私たちは裁判所から出て、香水をつけなおし、車を出して山をのぼった。守られた貴族風の邸宅の庭園で、身体をソファに安心してあずけ、ヴェネト州産のスパークリングワインを片手に町を見下ろした。するといつの間にか、裁判所のあの箱は、見えなくなった。そして私という観光客はそれを過程も含めてまるごと、まるで人ごとのように眺めていた。
映画博物館でソファに寝転び、おしゃれレストランでお任せコースに舌鼓を打ち、新しい出会いに乾杯する。そのテンションと、裁判所へ行くテンションは相似形だ。法廷の中でスケッチをして、聞き取れぬ言葉に耳をすまし、「裁判」というある種の伝統芸能を、異国人として、ちびた鉛筆をなめなめ記録する自分に乾杯。
裁判の公正さを確保するための「公開裁判の原則」自体は神聖なものだとしても、傍聴にはときに、他人の人生がかかった手続を「あっちの世界」としてエンターテインメント化するいやらしさがつきまとう。
デザートのチーズとスフレが終わった。その後も私たちは、ショットのグラッパとリモンチェッロを飲みつづけていた。気づくと夜は深く、ショットは永遠につづくと思われた。イタリア人たちはめちゃくちゃ飲んだ。
宴うたげが終わるころには、眼下の町並みは更新され、抽象的な光の集合体になっていた。その光の粒の1つが裁判所であるはずだ、などと感傷的なことを思ったが、トリノの町はただのっぺりと単一なのだった。
エンドレス・グラッパのショットを飲み干すと、私たちは山を下りた。そしてその夜の会話のかけらをひとつぶか、ふたつぶ残して、スコンと忘却した。そう、観光客らしく、無責任に。
(イタリア編・了)
ぶらり世界裁判放浪記
弁護士の原口さんは、ある日、事務所を辞め、世界各国放浪の旅に出ました。アジア・アフリカ・中南米・大洋州を中心に、訪れた国は、約131カ国。目的の一つが、各地での裁判傍聴でした。そんな唯一無二の旅を描いた『ぶらり世界裁判放浪記』(小社刊)の試し読みをお届けします。