5年間住んでいたが、高円寺は”あたたかな混沌”の街だった。
道のド真ん中で若者が将棋を指していたり、コロナ禍にも関わらずロータリーで宴会をする集団がいたり。年に4回も開催されるお祭りは街ぐるみで熱狂し、知らないおばあちゃんには突然挨拶をされて、老舗銭湯には今日も老若男女問わず人が集まる。無秩序で、やかましく、情に熱く、お節介焼きで。そんな街が心から愛おしかった。
高円寺に越してまもない頃、新高円寺駅に続く商店街を散策する中で、「珈琲亭 七つ森」に出会った。漆喰で白く塗り立てられた外壁、黒光りする瓦屋根の上に、緑青色をした看板がデンと乗る。蔵造りの“ゴツい”見た目に気圧されつつ勇気を出して中に入ってみると、レトロでシックで、ワクワクする魅力的な空間が広がっていた。
長屋のような細長い構造。右手には、カウンターつきのキッチンがある。一段上がった節目が目立つ木の床の上に、揃いの黄色味がかった机と、形は様々だがアンティークな雰囲気の椅子とソファが並ぶ。そして店の棚や机の上に、ガラス瓶や壺、タイプライター、金魚鉢(金魚はもちろん健在だ)など多種多様な小物がひしめき合う。壁がくぼんだような空間にはなんと日本人形の姿も。なんて愛おしい混沌さ! まるで、美しい宝石がぎゅうぎゅうに詰まった宝箱を見つけたような心地だ。これから高円寺で過ごす日々を想像し、期待に胸が高鳴った瞬間だった。
七つ森の創業は、1978年。茶葉の販売を行っていた長屋造りの建物を、今の形へと作りかえた。当時は手前部分が店舗、奥が住居になっていて、現在は換気扇が備わっている高い天井部分は、住居エリアを照らす明かり窓だったそうだ。
以前はコピーライターとして働いていた店主は、喫茶店を「場所」「味」「雰囲気」の3つを提供する場として捉えて様々な意趣を凝らした。特に、開店当初は食に対する安全性が問われる時代だったので、“安心安全なものを提供したい”と無農薬の野菜を取り寄せ、添加物もなるべく使わないように今も努力を重ねている。
七つ森のメニューは通常メニューと季節限定メニューの2つに分かれているが、これも店主の戦略のひとつ。広告の仕事の一環で店作りに関わることも多く、その経験から「定番品と季節品を揃えるのが商いの基本」という考えがあり、導入したそうだ。季節メニューは若いスタッフが考案していて、新しい風を常に取り入れることにも成功している。
開店当初から多くのメニューは変わっていないが、ご飯ものは30年前から徐々に増えてきた。オムごはんもそのうちの一つだ。
七つ森のオムごはんは、名前の通り普通のオムライスとはちょっと違う。たけのこや牛肉が入ったしぐれ煮を混ぜたご飯の上に、楕円形のオムレツがポテッと乗っている。
極めつけは、オムごはんと共に提供される山椒。これをパラパラとオムレツの上にふりかけ、オムレツを崩しながらご飯と共に口に運ぶ。バターがふんだんに使われたオムレツの、とろんとした旨み。やや甘じょっぱい味付けのしぐれ煮入りのご飯と、驚くほど相性がいい。そして、アクセントとなるのが山椒のピリリとした刺激。これが、もったりと重くもなりやすいオムレツとしぐれ煮の組み合わせにピッタリで、山椒があるのとないのとではまるで違う。山椒の量で更に味わいが変わるので、何杯でもおかわりしたくなってしまう、中毒的な魅力があるのだ。
初めて訪れてから高円寺を離れるまで、何度も七つ森に足を運んだ。沢山の思い出を過ごした七つ森の中でも、ひときわ好きなものがある。それはリボンがついたお釣りの5円玉だ。
七つ森のメニューは全て“~~5円”と末尾に5円がついている。あえてキリの悪い数字にしたのは、お釣りにその5円玉を渡したいからだ。「お財布の中にリボンの5円玉があれば、こんな店があったと思い出してもらえる」という店主の計らいから取り入れられたのだが、私はそこに優しさを感じる。5円には、”ご縁がある”という意味合いもある。根底にはそんなお店側からの優しさがあるのではと思うのだ。
カオスで、そして根底には優しさが流れる。珈琲亭 七つ森は、私が5年間住み続けたあたたかく混沌とした高円寺を体現するようなお店だ。実は、来年にはまたそちらの街の方面に引っ越す予定がある。その時にはまた何度も足を運び、混沌さに浸りたいと思う。
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『純喫茶図解』をお読みいただき、ありがとうございました。連載はこれにて最終回となりますが、描き下ろしを加えて来年4月に書籍を発売予定です。紙ならではの図解も、ぜひお楽しみに!
純喫茶図解
深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。
都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。
そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?
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