吉永小百合さん主演で映画化された『いのちの停車場』のシリーズ3作目『いのちの波止場』。南杏子さんは2023年、取材で能登半島を訪れ、穴水町の美しく穏やかな風景に惹かれて、この町を舞台にすることに決めました。しかし、執筆途中に能登半島地震が発生。様々な思いを抱えて執筆を進めた南さんは、今年の夏、穴水を再訪しました。
物語の舞台、穴水町を再訪して
「もう一度、物語の地を訪ねましょう」
担当の編集者さんにそう言われて、私はすごく怖かった。
なぜなら、いのちのシリーズ3作目『いのちの波止場』は、石川県の能登半島中央に位置する穴水町が舞台だったから。2024年元日、能登半島地震が発生した時には作品全体がほぼ出来上がっており、あとは推敲の段階に来ていた。
2023年に重ねた現地取材では、町の空気や人々の心にふれることができたという手応えがあった。お話の設定は震災前の2023年の春から秋だった。けれど、震災ですっかり変わってしまった穴水町の映像が次々に放送されるのを目にして、私はその現実を受け止めきれず、書き進められなくなった時期もあった。
それでも何とか最終章までたどり着けはした。ただ、震災後の穴水町を実際に見たら、小説の世界がひどく甘っちょろいものに見えるのではないか、もしかすると、せっかく書き上げた小説が無駄だったと感じてしまうのではないか、と恐れた。
最後の章を書き上げた直後の8月末、心の整理も覚悟もできぬまま、編集者さんとともに穴水町へ向かった。今作『いのちの波止場』の主人公である看護師の星野麻世ちゃんのように、のと鉄道で。
終点の穴水駅に降り立ち、町を歩いた。倒壊しかかったビル、波打つ道路、更地になった店、崩れ落ちた鳥居……。ニュースで流れていた映像は本物だったのだと改めて思い知らされた。
打ちひしがれた思いで駅に戻ったとき、昨年秋の取材で訪れた時にお世話になったタクシーの運転手さんに偶然再会した。高齢の域に入られた彼が、ちゃんと元気で仕事をしていたと知って無性にうれしかった。「よくぞご無事で」「怖かったでしょう」と声をかけると、それには答えず、「取材でご案内したあの辺の商店街も、さっぱりしました」と、笑顔を見せてくれた。
その、さわやかな表情にまた感激した。道路が通れないほどの極限状態に比べれば、確かに「さっぱりした」のかもしれない。けれど、東京から来た目で見ると、とんでもない混乱の中にあった。ああ、これが能登に住む人の懐の深さと優しさなのだなあと思った。聞けば、運転手さんの家は輪島市の門前町にあり、震災から7か月が過ぎようとしているのにガスが使えず水シャワーなのだと教えてくれた。そのさなかに彼は、すがすがしい笑顔で「さっぱりした」と――。なかなか言えることではない。
悲惨な光景と運転手さんのたたずまいを見て、私は肝が据わった。被災前の穴水町には、美しく穏やかな日常が確かにあったのだと、拙い筆ではあるけれど、少しでも多くの方々に知っていただきたいと思った。
『いのちの波止場』の出版計画が一年遅れていれば、そして、この地を舞台に選んでいなければ、穴水町を書くことも、その優しさを知ることもなかった。取材で震災前の能登半島を訪れた時間は、私にとっての宝だ。
小説の中では、穴水町の病院で緩和医療に取り組む看護師の星野麻世ちゃんが、死期の迫る患者さんと家族に寄り添い、ともに悩み、希望の光を見つけて、成長していく。そして、生まれ故郷の穴水町を愛した医師の仙川徹先生が、この町で暮らす人たちとともに大切な時間を生きる。私にとって物語の舞台は穴水町でなければならない理由があった。それが読者に伝われば、作者としてこの上なくうれしい。
能登半島の皆様が一日も早く平常の生活に戻れますよう、心からお祈り申し上げます。
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いのちの波止場
吉永小百合さん主演映画『いのちの停車場』シリーズ最終話。主人公は映画で広瀬すずさんが演じた看護師・麻世。
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