吉永小百合さん主演で映画化された『いのちの停車場』のシリーズ3作目『いのちの波止場』。主人公は広瀬すずさんが演じた看護師・麻世。彼女は能登半島の穴水にある病院で、「緩和ケア」について学んでいきます。モルヒネ、ICD、胃瘻……。医療スタッフと患者、その家族たちのリアルで切実な問題を本文よりご紹介します。
* * *
激しい痛みがあるのに、モルヒネを拒絶する老婦人。
第一章 キリシマツツジの赤
74歳の末期大腸がん患者のルミ子は、激しい痛みがあるにも関わらず、モルヒネの使用を拒絶する。夫と麻世は、なんとか説得しようとするが、彼女の心には早逝した息子のある出来事が引っかかっていたのだ。
*
「看護師さん、モルヒネって危険なんですよね?」
探るような表情だった。やはり迷っているのか。
「決して危険ではありません。医師の指示通り少量から開始すれば、ほとんどの方は問題なく使用できています。特に、北島先生はスペシャリストですから」
重ねて質問が来た。
「だって、モルヒネって依存性があるじゃないですか……」
麻薬といえば「中毒」という言葉が出るくらい、多くの患者さんからは恐れられている副作用だ。麻薬中毒から抜け出すために、ひどい離脱症状に苦しむというイメージは、誰もがどこかで見聞きしたことがあるだろう。
「そこは安心してください。先生が痛みに応じて薬を調整しますから、心配されるような依存という状態にはなりません」
特に強い痛みがある場合、麻薬の依存が起こりにくいという基礎研究もある。
「麻薬の副作用について教えてください」
ルミ子さんは聞く耳を持ってくれたようだ。フェーズが変わったのを感じ、慎重に説明を始める。
「一般的には、ほぼ皆さんが便秘を経験されます。ただ、それに対しては下剤をお出ししますから心配いりません。そのほか、吐き気や眠気を感じられる方もいますが、吐き気止めのお薬もありますし、数日で慣れて症状が消えてしまう場合が多いです」
ルミ子さんは眉を寄せた。
「眠気ですか……」
さらに説明を重ねようとすると、「看護師さん、私大丈夫です。やはり強い薬はいりません」と絞り出すように、だがきっぱりと言った。
ノックの音がした。病室の入り口に妹尾先輩が立っていた。隣の病室の患者さんのための点滴トレーを手にしている。
「星野さん。もう、それ以上は……」
妹尾先輩が首を左右に振った。患者さんにモルヒネを強要するな、という意味だ。通りがかりに私とルミ子さんの会話を聞きつけたのだろう。
「久保田さん、ごめんなさいね。星野が言ったのは、そういう選択肢もある、という意味ですからね。決して無理強いはしませんからね」
妹尾先輩の言葉に、ルミ子さんは救われたような表情を見せた。
その夜、ルミ子さんのうなり声は、大きくなったり小さくなったりを繰り返した。私は何度も病室を訪れ、じっとり汗ばむルミ子さんの肩をさすりながら、ただつらかった。緩和ケアのエキスパートがそろう能登さとうみ病院の専門病棟に入院すれば、誰もが苦しみから解放され、心地よく死を迎えられるとばかり思っていた。
次の日もまた次の日も、ルミ子さんが考えを変えることはなかった。毎日を穏やかに過ごす患者さんが集う緩和ケア病棟で、503号室からだけは悲痛な苦しみの声が消えず、病室を訪ねるたびに私は陰鬱な気持ちになった。かけがえのない時間を、こんなふうに苦痛にまみれたまま過ごさせてしまっていいのか。患者さんを説得しきれない自分が歯がゆく、本当に無力な存在だと落ち込んだ。
いのちの波止場
吉永小百合さん主演映画『いのちの停車場』シリーズ最終話。主人公は映画で広瀬すずさんが演じた看護師・麻世。
これで安心して死ねるよ。
ありがとう、ありがとう。
余命わずかな人たちの役に立ちたい――“熱血看護師”麻世が「緩和ケア科」で学び、最後に受け取ったものは。
震災前の能登半島の美しい風景と共に、様々な旅立ちを綴る感動長編。