朝起きられない「起立性調節障害」という病を抱え、学校に行けなくなった中学生の実話に基づく物語『今日も明日も負け犬。』からあとがきを抜粋してお届けします。
きっかけは、ゴミと化すばかりの私のメモ書きだった。
二〇一九年の秋ごろだっただろうか。この時まだ十六歳だった私は、淡々と流れる学校生活の退屈さから、毎日のように鬱屈とした気持ちを紙にひたすら書くことで昇華させようとしていた。
当時高校一年生、いつものように学校の休み時間に隠れて書いていた紙切れは、大して話したこともないただのクラスメイトの西山夏実に見つかってしまう。裸より見られたくない心の叫びを表した言葉たち。書いたらあとは焼却されるだけのゴミと変わらないもの。西山はそれを興奮した勢いで、授業開始のチャイムとともに私の手元から奪い去っていった。
授業終了後、ようやく私の元にメモが返ってきたかと思えば、紙切れを差し出す彼女の目は奥の方までずっと潤んでいた。騒がしい学校の廊下で私は返されたメモを左手で握りしめつつも、初めて見る彼女の瞳から、「今この瞬間、ゴミはゴミではなくなったのだろうか」というようなことを考えていた。そしてこの人も体内でずっとモコモコと膨れ上がるだけの昇華しきれない何かを持っているのだろう、と。
数日後、西山に温泉に誘われた。彼女は中学からずっと闘病生活を送っていることを屈託のない笑顔で告白し、
「病気を抱えながら今まで生きてきた過去をいつか映画にしたい」
という願望まで私に打ち明けた。こんな無邪気な女の子が壮絶なものを抱えていたのだということに驚いて、ただ頷くしかなかったのを私はいまだに覚えている。
それに続いて、
「映画の原作となる本は小田に書いてほしい」
ということもこの時懇願された。
「小田、本書いてよ」と言われた瞬間だった。
それを聞いた私もいつか実現できたら面白いだろうな、と漠然とした想いを馳せたのだが、案外時はすぐにやって来た。二〇二〇年三月、新型コロナによる三ヶ月の休校期間が学校から言い渡されたのだ。突如生まれた空白の時間を目の前に、今しかない、と西山と確信し休校期間の三ヶ月を使って、私は西山の十六年間の人生を書き上げた。「起立性調節障害」という西山の病名も、この時初めて知った。原稿用紙三百枚以上にわたって西山の人生を書き切ると、今度は、
「小田、この本売ろう」
と彼女は言った。自分の本を届けて今まで支えてくれた人たちに読んでもらいたいのだ、と。
本を作ったこともなければ、ものすら売ったこともなかった私たちは、
「本 作り方」
「本 売り方」
とネットで検索するところから始まる手探りのような状態ではあったものの、二〇二〇年六月に「今日も明日も負け犬。」というタイトルをつけて、ネットで一〇〇冊自費出版するに至った。本は同じ学校に通う同級生からどこか遠くの知らない町に住む中高生にまで届き、一〇〇冊は二十四時間であっという間に完売した。特に西山と同じ病気を抱える中高生からの声は大きかった。「病気をもっと広めてほしい」という希望を求めるような類の感想を一つずつ読みながら、初めてこれが「反響」なのだと知った。西山も同じように感じていたのか、十七歳の夏に放たれた、
「小田、この本映画化しよう」
という西山の言葉により、「いつかやるはずだった映画化」は、「今やらなければいけない映画化」に変わった。起立性調節障害をさらに多くの人に広めるために。こうして、一〇〇冊販売のわずか2ヶ月後に「eiga worldcupで日本一」をとることを目標に原作本『今日も明日も負け犬。』の映画化プロジェクトがスタートした。
監督は実際に起立性調節障害と闘う西山自身が務め、脚本を小田が務めた。「西山夏実」役は役者を目指す古庄菜々夏が、「蒔田ひかる」役はひかる自らが演じた。他にもSNSの呼びかけでスタッフが集まり、高校生二十八人の映画製作チームが完成した。
コロナ禍真っ只中に集まった高校生スタッフの中には、西山と同じようにハンディキャップを抱える人もいた。そんな不完全な状態でスタートした「負け犬。」チーム。うまくいかない撮影も当たり前のようにあったが、遠回りしながらも一年かかって映画「今日も明日も負け犬。」がついに完成した。完成後、映画を届けるために、クラウドファンディングで資金を集めて福岡の劇場で公開し、十八歳の冬に目標だった「eiga worldcup 2021」で最優秀作品賞も受賞することができた。日本一の映画としてついに陽の目を浴び、新聞、テレビ、ラジオなどのメディアでも取り上げていただくことが増えた。高校卒業後は、映画を届けることに焦点を置き、教育機関や全国を飛びまわり、そして海外にも届けた。
16歳で「今日も明日も負け犬。」を百冊自費出版してからというもの、若さも相まってか、自分たちの行動に、「反響」というものが常に付き纏っていた気がする。
本を読んでくれた人の反響があって、自分たちの手で映画化することを決め、映画製作の過程を応援してくれていた人の反響があって、クラファンで集めたお金で自主上映し、さらに「日本一」という称号を取り、反響がMAX地点に達した時には、起立性調節障害への理解をさらに広めるために、全国・海外からの上映依頼に応えた。
そして20歳になった年、映画のDVD/Blu-rayの発売をもって、映画製作委員会としての活動を終了した。4年という月日がもたらした変化や影響。振り返れば次から次へとF-1レーサーのように目の前を爆速で過ぎていくものだったが、その一つ一つをとってみれば実に重たく、濃いもので、反響が大きくなる一方で、高校生という身分だからこそ感じた社会的な「負け犬。」感にも苛まれるようなことだってあった。
「今日も明日も負け犬。」は空前絶後で唯一無二のものだからこそ、毎回足を踏み入れる場所は安定していないぬかるんだ土地のようだった。
反響というのは、本を書いてから出会う人出会う人に
小説家の小田さん
脚本家の小田さん
と呼ばれ出した時に見え始めたものだったが、時にそれは私の目には不安として映ることもあった。
周りは大学生になっていく中、大人たちに言われた通りに私は小説家や脚本家としてこのまま書く人になるの?
書いて食べ、書いて死んでいくの?
と、書くことで生計を立てる道筋など全くもって見えていないのにもかかわらず、周りに言われるがままに、「書き続けてね」という言葉を私は次第に味わうこともせず飲み込むようになっていたのだ。
「反響」に取り憑かれたこの四年間。
私は、周りの声ばかりが聞こえて自由意志が持てなくなることを最も恐れていた。決して書きたくないというわけではなく。
そして今日の私も、今後の人生について語るべき事柄など持ち合わせているわけではないのだが、ただ一つ、『今日も明日も負け犬。』の原作者として思うことといえば、
『今日も明日も負け犬。』が求められる限り、私が生きている間はこの作品が世の中に存在していてほしい
ということ。
明確な治療法も見つからず、病気を理解されない苦しみが消えないならその孤独だけでも消すかもしれないこの本はどうか消えて欲しくない
ということ。
映画はDVD/Blu-rayを出すことで、活動を終えられたが、本は求める人のもとに供給できていないのが、唯一の心残りだった。今回改めて出版されるということは、本を求める問い合わせに対して「本はないんです。ごめんなさい」というメールを一通一通送らなくてよくなったということなのだ。私は原作者として、この本を求める人全員に届く状況が少しでも長く続いてほしいと思っている。読みたいものが読めないという悲しい思いを誰もすることのないように。
今回、幻冬舎からの出版が決まったのももちろん、多数のメディアに取り上げていただくようになって生まれた反響あってのことだ。
「小田、本書いてよ」
の一言で始まった物語は、出版という形で本当の終わりを迎えようとしている。
今回、『今日も明日も負け犬。』を世の中に飛び立たせることを企ててくださった幻冬舎の皆様には、感謝してもしきれない。西山の必死に闘った姿が、今度は数え切れない人の元に届けられようとしているのだから。
映画を見て「原作本は読めないのですか」と声を届けてくださった皆様、出版を心待ちにしてくださった関係者の皆様、出版にあたり医療監修にご協力くださった吉田誠司先生、そして素晴らしい装丁を考えてくださった高校の大先輩でもある、小玉文先輩にも多大なる感謝と尊敬の意を述べると共に、今後も良いご縁を紡いでいきたいと僭越ながら感じている。
小説を書いたこともないのに、「本、書いてよ」と言われて、当時十六歳の私もよく書いたと我ながら思うが、私は西山の叫びを誰かに届けるためだったら、なんだってしていたのだろう。西山の叫びがこのまま放置され、誰にも見つかることなく彼女の中でいつの間にか消えていくのだけは、なんとしても防ぎたかっただけなのだろう。かつて、西山のおかげで私の言葉がゴミでなくなったように。今度は私の番であると思っただけなのだ。
「小田、本書いてよ」とあの日言ってくれた西山、本の売り方を一緒に模索してくれたテル先生、最初の自費出版で買ってくださった百人の皆様、そして「今日明日。」チーム全員には本当に感謝している。そしてこの出版によって、貴方たちの今後の長い人生に少しでも良い変化がもたらされることを切に願っている。
今日も明日も負け犬。だけれど。
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