先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんのデビュー作『せん-さく』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作はインターネット黎明期の不安とさびしさに包まれた複雑な人間関係を巧妙なプロットで描写した感動の長編ミステリです。
今回は序章の冒頭をご紹介します。
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せん‐さく【穿鑿】(センザクとも)(1)うがちほること。ほじくり返すこと。(2)手を尽してたずね求めること。狂、鱸庖丁「方々と─致いて、淀一番の大鯉を求めましてござる」(3)究明すること。どこまでも調べ立てること。天草本伊曾保「色々の─の後、板に開かるるなり」(4)問題。事項。浮、浮世親仁形気「貸借の─はわきにして」(5)事の次第。なりゆき。黄、御存商売物「あのいちやつきを見やれ、けたいの悪い─だ」
『広辞苑 第五版』より
序章 二〇〇〇年 五月
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音のない雨だった。
しかし、小雨と呼ぶには密度が高い。細かい雨粒がぎっしりと詰まって辺りを包んでいるようだ。傘を持たずに外へ出た典子は、急いで中へと引き返した。ゴミ置き場までの距離はわずかではあったが、ちゃんと傘を差したほうがいい。
傘を広げようとしたとき、表札の上に蛾が留まっているのに気づく。ちょうど『諸藤』という文字の真上だ。典子は傘の先で蛾を払いのけた。白くてすべすべしたプラスティックは虫にも心地よいのか、あるいは一度仲間が留まった場所は自分たちの縄張りだと思っているのか、時折こうして蛾を追い払う羽目になる。
典子が傘を広げるのを待っていたかのように、隣家のドアが開いた。もしかしたら、本当に待ちかまえていたのかもしれない。一戸建ての家を真ん中で仕切って二軒にしたテラスハウスは、想像していた以上に物音がよく響く。とりわけドアの開閉音やインターホンといった玄関先の音は筒抜けだった。隣の玄関で人の出入りする気配があると、つい聞き耳を立ててしまうのは、おそらく典子だけではないはずだ。
赤い花柄の傘が広げられるのを待って、典子は「おはようございます」と声をかける。隣家の主婦は同じ挨拶を繰り返した後、「朝から鬱陶しいわねえ」と大げさに顔をしかめた。でも、それほど悪いことばかりじゃないのに、と典子は思う。雨が降ってくれれば、庭の花に水遣りをする手間が省ける。
「今年は梅雨入り早いのかしら」
隣家の主婦はのろのろと歩きながら言った。典子も仕方なくその歩調に合わせる。遅いのは仕方がない。彼女はゴミ袋を三つも持っているのだから。おまけに傘を差してである。
「でも、天気予報ではまだ何も言ってませんでしたよね」
「あてになりゃしないわよ、天気予報なんて」
うなずきながらも、子供の時分に比べれば天気予報の的中率はずいぶん上がったものだと思う。予報では晴れと言っておきながら、一時間とたたないうちに雨が降るなんてことはなくなったし、空騒ぎに終わるだけの大雨警報や注意報などというものもなくなった。昔は「夕方から雨」などという予報は半信半疑で聞いたものだったが、今では誰もが傘を持って出かける。降水確率だって、かなりの正確さだ。そもそも昔は降水確率なんてなかった。
「そういえば、稲田さんのところね、昨夜もすごかったのよ」
隣家の主婦は声をひそめて、しかし楽しげに言った。「稲田さん」というのは、典子の住むテラスハウスの斜向かいにある家である。まるで細長い積み木を重ねたような不安定な造りの小さな一戸建てだった。夫が言うには、違法建築らしい。
「声だけじゃなくてね、音もすごかったの。で、心配になって窓を開けて様子見てみたのよ。そしたら、向かいの佐藤さんも窓から顔出してるの。笑っちゃったわよ」
すごかったというのは、夫婦喧嘩のことである。稲田家の夫婦喧嘩はこの辺りでは有名だった。
「昨日は奥さんがね……」
それにしても、どうして主婦というのは他人の家を覗き見るのがこんなにも好きなのだろう。目を光らせ、聞き耳を立て、頻繁に情報を交換し合う。その情報というのも、誰それさんのところは夫婦喧嘩のたびに食器が壊れるだの、誰それさんの家では子供が暴れているだの、取るに足らないことばかりである。が、その取るに足らない個人情報が彼女たちにとってはきわめて重要なのだ。国家機密と隣家の奥さんの隠し事を並べられたら、彼女たちは迷うことなく後者に群がるだろう。
ゴミ置き場に着いても、隣家の主婦はまだゴミ袋を持ったまましゃべり続けていた。そんなこと、どうでもいいじゃないの、所詮他人事なんだから。内心はそう思っていても、もちろんそれを表に出したりはしない。誰もがやるようにおもしろくてたまらないという顔をして、くすくす笑いながら相槌を打つ。時折、「あら、いやだ」と眉をひそめたり、大げさな仕種で「嘘でしょ?」と驚いてみせるのも忘れてはならない。
ああ、なんて面倒くさいんだろう。笑顔を浮かべながら、心の中でため息をつく。思っているのと正反対の表情を作ることにも、もうすっかり慣れてしまった。いつまでしゃべってんのよ、いい加減にしてよね、と毒づきつつ、「その後、どうなったんですか? それで?」と話の続きを促す。
ようやく隣家の主婦はゴミ袋を下ろした。それに合わせて、典子もゆっくりと体の向きを変え、さりげなく足を家のほうへと踏み出す。ようやく「帰路」である。ゴミ袋を置いて身軽になったにもかかわらず、隣家の主婦の歩調は遅い。行きよりも遅いんじゃないだろうか。まるでナメクジだ。
「あら、いやあねえ。ナメクジだわ」
心の中に浮かんだのとそっくり同じ言葉を出され、典子はぎくりとする。が、別に読心術を使われたわけではなかった。本当にいたのだ。側溝の金属製の蓋を三センチほどの小さなナメクジが這っていた。
「この辺って、多いのよ。毎年梅雨時になると出るの。諸藤さんも、梅雨時はお風呂場の排水口に蓋しておいたほうがいいわよ」
「まさか、上がってきたりするんですか?」
「梅雨時だけなんだけどね」
こういうことだけは住んでみないとわからない。不動産屋に訊いたところで教えてもらえる情報ではないからだ。
「そうだわ。いいものあげる。庭のほうに回ってくれない?」
隣家の主婦は思い出したように言うと、小走りに家の中へと駆け込んでいった。長話にピリオドが打たれたのはうれしかったが、今度は何を押しつけられるのだろう。それを思うといささか気が重かった。
ガーデニングが趣味だという隣家の主婦は、おそらくは親切のつもりで球根だの苗木だのを分けてくれる。猫の額という表現がぴったりの狭い庭だったが、テラスハウスという構造上、隣の庭が丸見えだった。そうなると、所狭しと花が咲き乱れる自分の庭の真横に殺風景な「空き地」があるのは、庭仕事の好きな彼女には耐えがたいのだろう。
典子は植物を育てるのが得意ではなかった。おまけに貰い物となると、下手に枯らすわけにもいかない。正直なところ、隣家の主婦がよこす球根や苗木はありがた迷惑だった。典子は小さくため息をつきながら、庭へと回った。
タイミングよくベランダの窓が開く音がする。
「これね、家の周りとか庭に撒いとくといいわよ」
フェンス越しに手渡されたのは、ずっしりと重いスーパーの袋だった。
「灰を撒いておくと、ナメクジが寄ってこないんですって。知り合いの農家からもらってきたの」
球根でも苗木でもなかったことに安堵しながら、典子は礼を言った。
「気休めかもしれないけど、うちは灰を撒くようになってから、いくらかナメクジ減ったような気がするのよね」
「じゃあ、さっそく撒いてみます」
再び話し込まれるかと思ったが、隣家の主婦は「がんばってね」と冗談めかして言うと家の中へと引っ込んだ。
さっそくと言ってはみたものの、雨の降る中、灰を撒いて回るのは面倒だった。しかし、今日中にやっておかないと、「まだ撒いてないの?」としつこく言われるに決まっている。ならば、さっさと済ませてしまわなければ。きっと後になればなるほど億劫になる。
まずは汚れてもいい服に着替えることにしよう。ゴム手袋か軍手もはめたほうがいいかもしれない。いや、手で撒くよりもシャベルか何か使ったほうが……。
あれこれと考えながら、典子は傘を畳んで、ベランダに置いた。ふと思い出して、ベランダの屋根を見上げる。築年数がかなりたっているためか、二、三センチほどの小さな穴があいているのだ。隅のほうだから何が困るということはないが、雨が降るたびに気になって見上げてしまう。
これまで大家に頼んで修理してもらおうとか、あるいはこれくらい自分で塞いでしまおうとか考えた住人はいなかったのだろう。ずいぶん長い間放置されていたらしく、穴の周辺の色がすっかり変わっている。そこから雨の滴が規則的に落下していた。今まで気づかなかったが顔を近づけて見てみると、ベランダのコンクリートがそこだけわずかにへこんでいる。何年もかけて、少しずつ雨粒に削り取られてきたのだろう。いや、削られるというよりも、蝕まれると言ったほうが近いような気がする。
「いやだわ……」
典子はしばらくの間、ぼんやりとコンクリートを叩く雨粒を見つめていた。
(#2に続く)