
ここ最近、雨が続いて桜がちっていないか不安になって夜中に近くの公園に行く。4月の初旬、よかった。まだかろうじて咲いている。どうしてこの花のことを綺麗だと思うのだろう。小さい頃は埃の塊が枝の先についてるみたいで“綺麗”というフォルダには入れていなかった。むしろ夜の街灯が不自然なほど淡く浮かべるのを不気味な気持ちで見ていた覚えがある。この世のものと思えなかった木の下でスーツを着た大人が泣いているのを見たことがある。小さなわたしは横に立ち、顔をじっと見ていた。心配していたのではなく、驚いていた。大人は泣かないものだと思っていたから。
小雨の降る中、公園のベンチに座り、缶ビールのタブを開ける。日比谷野外音楽堂で踊ってばかりの国とライブをしたのは二週間前。なんだか熱ばんだ体が未だ着地せずに、気球のように浮かんでいた。多分だけど一度も靴底は地面についていない。その熱を家で一人では抱えきれず、わたしたちはひたすらにスタジオで練習した。可能性に触れている瞬間はあらゆる不安や寂しさから自由でいられる。バンドは手段ではなく、目的そのものだとわたしは知っている。
そのことに気づいたのはイーグルと初めてスタジオに入った時だった。大阪の西成で声をかけ、バンドをやろうと人生で初めての告白をして、スタジオに入った。イーグルがギターだったから、わたしはベースにシールドを繋いで、アンプの電源を入れた。ゆっくりと起動していくアンプからコイルの蠢く音が聞こえ、赤くランプが光り、だんだんと熱を持っていく。わたしはバンドをやるんだ。
その時の気配を超える興奮は一度も訪れていない。あの時、山の頂で一つの完成を遂げていた。それから下山は始まった。皮を切らせて肉を断ち、手探りで日々を走った。生傷は絶えず、瘡蓋の上に瘡蓋を作り、詩がそこに生まれた。その詩を交換しあってたくさんの人と出会った。その度に視力は良くなっていく。解像度高く人の気の流れが見える。当然、嘘や悪意や欺瞞、羨望や嫉妬、軽薄な言葉のやり取りも見えてくる。ふと気づくと化け物が体の中にいて、爪を立てて、内臓の表面に傷をつける。しばしば心臓を丸ごと握り締め、指圧しながら、わたしの体を左に右に操縦することもあった。
わたしは思う。音楽や芸術に触れて、どんどんと解像度を手に入れて、知性や意識が拡張していき果たして幸せに近づいているのだろうか。心に尋ねてみてもそっぽを向いたまま返事をしない。悲惨な現状に圧倒されて塞ぎ込む。いっそ目なんて、耳なんてつぶしたいと思った夜がわたしにはある。
先日サウナの待合室で会話する二人の学生がいた。「てか、俺たち幸せじゃね? 何も不安とかないし。」そんなことを確認しあう二人の奥ではニュースが流れていて、ガザの街が壊され瓦礫になっている。半径5メートル以内で起きている歪な構造をみながら、反面羨ましくも思っている自分がいた。引き受けられるキャパ以上の情報を入れて、転倒している人が多い中で、それはいいことかどうかを置いておいても幸せだと思えていることを他人がとやかく言い、比較できるものじゃない。
音楽とはなんだろう。どんどんと苦しくなっていくために、映画や小説や音楽は存在するのだろうか。桜の花びらが足元に散っている。横に小さな体のわたしが立っていてじっと顔を見ている。大人も泣く気持ち、今ならわかるよ。
メールが届く。47都道府県ツアーのブッキングをしている今、メールは鳴り止まない。前に行った時の様子の写真がオーガナイザーから送られてくる。下山のメンバーも違うし、表情も違う。こんな顔で笑うのかとか自分を見て思った。
旅先。知らない街。誰もいない商店街、喫茶店、来たことないはずのライブハウスの楽屋に昔の自分が座っている。朝方、早めに起きて散歩していると未来の自分が漁港の階段に座ってタバコを呑んでいる。そんな経験を何度もした。複数の可能性の中の一つを生きていて、同時に生きているあらゆる可能性はふとした時に交差する。旅にはそんな可能性があるのだろう。インターネットのおかげ、というか、そのせいで行ってもないのに知った気になっていることがある。画像と情報、それだけで擬似記憶が作られる。美化される前の実際の記憶はもっと傷だらけで不格好でいて、生々しい。わたしは血を垂らしたレアな状態の時間と対峙することが好きだ。そんな時間たちはわたしを生き物として正確に扱ってくれる。LIVEがそんな、生きることと同じ言葉が使われていることは決して偶然じゃない。データに変換出来えない振動を探しに街に行くのだ。
六月からのスケジュールを見ると、戦慄する。一度も東京に帰らない月もある。わたしの今までやってきた中でももっともライブをする一年になるのだろう。イーグルの「やるしかないでぇ」という声が暗闇から聞こえてくる。わたしの一番最初の才能はイーグルにロックンローラーとしての確信を見出して声をかけたことだ。初めてのバンド。でもまだ才能は使い切っていない。
メールが届く、奥田が先日の野音のMCに字幕を入れてくれている動画のチェックのメールだ。こいつはなんでいつも自分に力を貸してくれるのだろう。再生すると小っ恥ずかしい気持ちが湧き上がるが、無視して進むとわたしらしき人間が時代を割って雷を落とすと言っている。物理的に熱ばんでいく体。もう一歩も引けない。
昔の、いや、昔と言っても二週間前だけど、自分に励まされることがある。記憶はその時々に孤立無縁に立ち続ける。どんなひどい未来で、どんなひどい自分になり果てても、2025年のその瞬間、正しくいられた自分は歴史の中で立ち続け、そして未来の自分に問いかけるだろう。わたしの血は巡り全霊で生きていると。この閉塞した時代を貫通する速度と生きたのだ。そんな記憶を打ち立てたい。そのために47+ツアーに出る。そこで集めた炎たちを一挙に2026年3月の武道館に集めて、一気に火をつける。変わる時はじわじわとなんてことはない。加速度を最大限に高めて一気に発火させるんだ。ここで時代も自分も変える。
音楽が貧しくなるためにあってたまるか。アンプの電源が起動してコイルが回り始める音が聞こえる。もう一度音楽とも関係を結び直す。
缶ビールを飲み干した。「桜の下で笑う大人の気持ちがわかるかい?」横にいたリトルマヒトに言うと、とっくにいなくなっていた。もうツアー先のどこかに現在地を変えているのだろう。時空をスキップできる身分はいいねえ。わたしには不自由な体が付きまとうから、簡単には動けないのさ。でも行くよ。バンドワゴンに乗って、あの街まで。
(photography Taro Mizutani)
*マヒトゥ・ザ・ピーポー連載『眩しがりやが見た光』バックナンバー(2018年~2019年)