先日発表された「このミステリーがすごい!2025年」で『檜垣澤家の炎上』がランクインした永嶋恵美さん。
この特集では幻冬舎で刊行された永嶋恵美さんのデビュー作『せん-さく』の試し読みを5日間連続で掲載していきます。本作はインターネット黎明期の不安とさびしさに包まれた複雑な人間関係を巧妙なプロットで描写した感動の長編ミステリです。
今回は第一章の冒頭をご紹介します。(#1から読む)
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第一章 九月九日(土)東京・晴れ
1
「これからどこへ行くの?」
典子はできるだけ何気ないふうを装って、尋ねた。
「直江津」
券売機のボタンに視線を落としたまま、浅生遼介が答える。
「直江津って……あの?」
長野市内に引っ越して半年足らずの典子には、直接足を運んだことのない駅だった。もっとも、地名自体はよく知られているし、日本海側の主要路線である信越本線と北陸本線が交わっている。それなりの規模の駅には違いなかった。
「直江津から寝台特急」
千二百八十円の切符を手渡され、咄嗟に料金表を見上げる。直江津までの運賃だ。そして、すばやく周囲に視線を走らせる。知った顔はいない。
「それって、指定券とか要るんじゃないの?」
ついさっき通ってきたばかりの改札口にとって返しながら、遼介はぼそりと「持ってる」と言った。
「私の分も?」
遼介がうなずく。
「別に、典子さんの分と思って買ったわけじゃないけど」
「誰でもよかった?」
意地悪く典子は切り返す。遼介はあわてたように首を振った。こんなときの彼はひどく子供っぽい、と思う。実際、子供なのだ、二十九歳の典子から見れば。
「俺が一人でそんなもんに乗ってたら、絶対怪しまれるから」
そのとおりかもしれない。遼介は幾分大人びた容貌の持ち主とはいえ、未成年なのは一目瞭然だった。受験シーズンならまだしも、二学期が始まって間もない今の時期に、この年齢の少年が一人で夜行列車に乗っていれば、車掌も他の乗客も不審に思うだろう。
「もう一人連れがいるって言えば、全然不自然じゃないと思って」
「もしかして、計画的だったわけ?」
前を向いたままの口許に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「あきれた。急に帰るのがいやになったって言ったのは誰よ」
典子はつい先刻、新幹線の中で交わされた会話を思い浮かべる。あと五分で高崎に着くというときだった。
『典子さん、どこで降りるんすか?』
『終点。遼介くんは、次で乗り換えじゃないの』
遼介は前橋から出てきたと言っていた。高崎駅までバスで四十分くらい、とも。
『うん……。でも、なんだかなあ……』
『荷物、下ろしたほうがいいんじゃない』
高崎で下車するらしい乗客が数人、すでにデッキへと向かっている。
『どうしたの』
遼介は膝に乗せた両手をじっと見つめている。
『ほら、早くしないと』
『なんだか……』
『何?』
いらいらするほど長い沈黙の後、遼介はうつむいたままつぶやいた。
『帰りたくなくなっちゃって』
窓の外には、すでにホームの明かりが流れ始めている。ゆっくりと体が進行方向へと押しやられていくのがわかる。
『何言ってんの』
典子は遼介の荷物を網棚から引きずり下ろした。が、遼介は立ち上がろうとしない。
『ほら、早く!』
典子は襟首をつかむようにして、遼介を立ち上がらせた。通路でぐずぐずしている背中を強引に押して、デッキへと向かわせる。
『もう……。世話が焼けるんだから』
そうつぶやきながらも、まんざら悪い気分ではなかった。決して世話好きとは言えない性分であることを自覚していただけに、少しばかり意外だった。
『やっぱり、いいや』
ようやくデッキに出ると、遼介はホームに面していない側のドアにもたれかかった。
『いいやって……ちょっと!』
ホームに並んでいた乗客が乗り込んでくる。典子はあわてて遼介の腕をつかんだ。遼介は拗ねたような顔で、壁の時刻表を見つめている。ホームに発車ベルが鳴り響く。
乗り込んでくる人々の目に、自分と遼介はどんなふうに映っているのだろう。年齢の離れた姉弟か、教師と教え子か。少なくとも、別れを惜しむ恋人同士に見えないことだけは確実である。決してロマンティックな解釈をしてくれない、つまり、人々の好奇の視線の中に好意的な感情が全くないということだ。
十五歳の少年と二十九歳の女が新幹線のデッキで押し問答をしている光景は、どこか珍妙でさえある。無理もない。
『どうして……』
背後でドアが閉まった。新幹線の停車時間は短い。遼介が大きく息を吐いた。
『俺、家出しようと思って』
瞬間、からかわれたのかと思った。見るからに真面目で、どことなく要領の悪そうな遼介が「家出」などと言い出したことが信じられなかったし、何より自分自身がそんな言葉とは遠く隔たった年齢になってしまっている。
『ちょっとだけ……家に帰らないでおこうかなって』
『どこに寝泊まりする気よ。こんな時間じゃ、どこも宿なんてとれないでしょ。この時間でなくたって、中学生を泊めてくれるようなところなんてないと思うけど』
もしかしたら、遼介は典子の自宅に泊めて欲しいと言いたいのだろうか。
『そんなの、どうにでもなるじゃないですか。深夜バスの中だって、オールナイトの映画館だって』
どうやら、自分はあてにされていたわけではないらしい。確かに、知り合っていくらもたっていない相手をそこまで頼りにするはずがない。典子は己の自惚れを恥じた。
『でも、かなり疲れそうね』
まっすぐに遼介が視線を向けてくる。今度は典子のほうが目をそらしたくなってしまう。
『典子さん、あの……。少しだけ、つきあってもらっていいですか?』
意味がうまくくみ取れなかった。が、訊き返すよりも遼介の言葉のほうが早かった。
『ちょっとだけ、いっしょに電車とかバスに乗ってくれれば。そんなに何日もじゃないです。疲れるから。一日……いや、半日だけ』
本当ならば、次の駅で折り返すように説得すべきなのだろう。それが未成年に対する大人の義務というものに違いない。もっともらしい説教のひとつも垂れて、遼介を家へ送り返すことが。しかし、典子の口から出たのは、全く別の言葉だった。
『本当にちょっとだけでいいのね?』
遼介がうれしそうにうなずいた。その笑顔を見た途端、後ろめたさでいっぱいになる。
『その後は、ちゃんと家に帰るって約束してね』
それは遼介に対する言葉ではなく、自分の良心への言い訳だった。
(#4へ続く)